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『反出生主義を考える 現代思想11 2019vol.47-14』

ホンとの本

『反出生主義を考える 現代思想11 2019vol.47-14』
青土社
\1400+
2019.11.

 久しぶりにこの類の雑誌を購入した。一冊ほぼまるごと一つのテーマだというのがいい。その世界に浸ることができる。
 中心人物はD.ベネターである。このタイトルにある「反出生主義」を提唱したと言ってもいい。とにかくこの人の発言により、思想界が大きく刺激された。
 「生まれてこないほうが良かった」という思想。そのように本書にはサブタイトルがついている。簡潔に言えばその通りであるし、それに尽きると言ってもいい。それに対して日時用考えを深めている2人の対談というか、本書の提示によると「討議」から始まり、幾多の人々の論調が並んでいる。読み応えがある。ベネターの考えをうまく報告してくれるという役割も果たしているし、それに対する問題点の指摘や批判、またどこまで同調できるかなど、思索と論争の場として、非常に興味深い。
 どうして私がこの本を買う気になったか。それは、私もかつて間違いなく、そのように考えていたからである。しかし、いまここでそれを語ろうとは思わない。また、ベネター自身が、この自らの思想を自分の生き方として選んでいるということも知ったが、それを批判しようとも思わない。ただ、決して表には出て来ない、この論者の心にある背後の心理については、私は私なりに、共感できる部分もあるような気がすることだけは表明してもない。もちろん、それは私の想像なのであり、そうでないかもしれないのだから、決めつけてベネターはどうだこうだと言うつもりはないというわけだ。
 議論は、非対称性というひとつの鍵からできている。不幸であることは悪だとすると、生まれてきた者にはそれがありうるが、生まれてこない者にはそれがない、というところを中核として、生まれてこないほうがましであるという方向に進むようなのである。パスカルがその確率論からも言えることなのだろうとは思うが、神の存在について賭けた方が有利だというように言ったことと、逆の意味ではあるがつながるような気がする。
 その辺りを、哲学的思考により、なんとかベネターの論の不備を突いていこうとする論客もいる。概して、執筆者はベネターの結論を諸手をあげて賛同しているようではない気がする。しかし、「どうして人を殺してはいけないのか」という問いに対して、哲学者たちが決定的な反論を以て向き合うことがなかなかできなかったのと同じように、ベネターの提示にも、必ずしも明晰に違うと言ってしまえるうようなものでもないらしい。
 しかし、不幸とは何か。それは端的に悪なのか。ひとの持ち出す叙述を、非常に単純化して同一視する、あるいは対立化するということが前提にあるとすると、それしかないのかという気にはなってくる。ソクラテスのときは、ひとつ促されて賛同すると、その後の議論に矛盾が生じることが繰り返されていったわけだが、ベネターの場合でも、この良いか悪いかという、本来ならば丁寧に検討するべき概念が、いとも簡単に前提されてしまっている辺りが、怪しいのではないかと感じた。
 川上未映子氏の『夏物語』が2019年にこの問題を文学を通じて問うていた。文学だから理論を成立するのが目的ではないし、結論というものがなくても構わない。しかし哲学や思想となると、アフォリズムでもない限り、一定の結論が出るし、それに対して検討する議論が行われる。しかし、理論ができてくるにはその背景が何かしらある。これからの時代の成り行きへの不安や、子を生むということの責任感や、何よりもいま自分が生きている世界が、どんなにかつてなかったほどに贅沢な生活をしてしようとなにかしら「生きづらさ」を覚えるために、子を生むことへのためらいを感じるというのは、ベネターだけではなかった。それだからこそ、この議論としてはやや暴力的な反出生主義に、理解を示す一般の声もあったということなのだろう。
 しかし、苦しんでいる人にいまさらこのような議論を正当化させたとしても、何かしら救いになるのだろうか。救いのために論じているのではない、と言われるかもしれないが、生まれて者にしか考えることはできないのだから、生まれてこないほうがよかったのではないか、という問いを問いかけられても、反実仮想に過ぎない議論でしかなく、苦しさや生きづらさのためには何の助けにもならないのではないか。
 それから、本書もそうだが、女性の論客が殆どいない、そんな中で男たちばかりが勝手に、生まれてこないほうが、と論じているばかり状況はどうなのだろう。『夏物語』は、専ら女性が問う物語であった。男は基本的に2人、子を生むことにドライすぎる男、つまりそれはまたどこか非人間的な姿を呈する男と、主人公に寄り添っていく立場にあるような男とが登場するだけである。この視点で、自分の体内から新たな命が始まり、子として世界に送り出す営みについて疑念を抱いたり葛藤したりという様が描き出されていた。しかし、反出生主義という思想になると、その感覚がまるで見られない。抽象的な、非対称性の論理で説明し尽くしたような態度でいたり、そこに論理的問題を見出そうとしたりする男たちが俎の上に載せている、オモチャのようになってしまってきているのではないだろうか。
 この点を突く論者もいた。男が「産ませる」立場から理屈をこじらせていてよいのかどうか。そして、そのうち産む目的が、国家や経済を理由にするところへ結びつけられていくだけのものになってしまわないか、私は危惧する。この「生まれてこないほうが良かった」という問いの中の「良かった」を議論するのは大切なことだが、その辺りのことば遊びのようなもので取り扱うことができるほど、生命は軽くはない。国家のために生命を限りなく軽くさせるような世界が常識化していくと、もはや生きづらさどころの問題ではなくなってしまう。私たちは「生む」「生まれる」を問うているようで、事実は「死なせる」「殺す」ことを正当化しようと内心目論んでいるのではないか、自分に対して問い直し、深いところを見つめなければならない時がきているように思われてならない。




Takapan
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