『アンの青春』
モンゴメリ
松本侑子新訳
文春文庫
\710+
2019.9.
赤毛のアンのシリーズ第二弾。当然、「赤毛のアン」を読み終えてから、この第2巻に突入した。
その「赤毛のアン」いう邦題が、あまりにも日本では知られるようになった。原題を直訳すると、「緑色の切妻屋根と破風のアン」となるであろうことを、訳者は「訳者あとがき」で明かしている。本作も、「アヴォンリーのアン」となる。ではこのシンプルな題は何に基づいているかというと、村岡花子訳の邦題によるのだという。訳者も、これでアンの世界に目覚め、憧れ、そして大人になってそれが抄訳であることを知ったことで、全訳に挑んだというのだ。
さらに、このアンのシリーズは、決して少女小説ではない、ということを強く感じたために、引用された英文学や聖書などの原典を探り、それをとことん示すという方法に出たのだ。本書では、その注釈が60頁にわたっている。
いまでこそ、インターネット検索で、昔の作品もかなり調べやすくなっている。多くの研究者の研究の成果も公表されているならば、コンタクトできる。しかし訳者は最初、コンピュータ通信がかろうじて始まろうかという頃にこの作業を初めている。その辺りの事情は、別の本で詳しく明かされているので、関心がおありの方は訪ねてみるとよいと思う。とにかく、ひとつの出典を明らかにするために、血の滲むような努力と、時間と費用をかけて調べ尽くしている。その気概に私は惚れた。
日本の読者には、細々とした英文学の引用や聖書の言葉などは必要ないだろう、とした先人の気持ちを軽んずるつもりはない。しかし、それらを含めてこその「アン」の世界であることに、間違いはない。アンの性格も考え方も、もちろん物語の展開も、そうした背景によって成り立つものだからだ。私はこの全文訳に挑もうと思った。そうしないと、牧師夫人であった作者のモンゴメリの描く世界が理解できない、とも思ったのである。
もちろん、訳者が各方面で述べているように、「バレアナ」や「ハイジ」のような、教会や聖書本意の護教的な意図はない。スコットランド系とアイルランド系の登場人物故に、そこにはケルト文化が色濃く反映されている。ケルト神話や妖精の世界が自由に入り込んできている。そういう理由もあって、アンのシリーズは、大人の文学の深みと広さが伴っているというのである。だから、英語の練習問題としてアンを英語で読んでみよう、などということは、初学者はやめるべきだ、というのが常識になっている。
さて、物語のほうだが、いつものように粗筋を逐一明かしてしまうことは、私はここではしないことにしている。ただ、振り返っておくと、こうであった。アンが、手違いが原因でマリラとマシューの許に来て、学校に通うようになる。よい友だちや先生に恵まれ、文学的素養に才能のあるアンは、数学に苦しみながらも、学業では好成績を挙げる。大学に行くだけの資格を得てはいたが、マシューの死に伴い、マリラと農場を助けるためにも、進学を諦め、地元に残ることを決意。これが、最初の「赤毛のアン」の概略である。
そのアンは16歳。プリンス・エドワード島の教師として、子どもたちを教える仕事を始める。えらく若い気がするが、日本でも戦前の教師の世界には、これと似たようなものがあったはずだ。しかも、女性教師は待遇が悪い。女性の置かれた社会的情況も、それが常識であるから、物語ではそのままに描かれている。本書は、アンのそのような若い生活の中で、アンの成長が際立つ巻である。
モンゴメリは最初の本をいろいろな発行所にもちかけるが、なかなか認めてもらえない。そこへL.C.ペイジ社が採用し、出版が決まる。モンゴメリは、教会のオルガンを弾くこともあり、他方郵便局の窓口業務もしながら、小説の執筆をしていたことになる。実際の出版までの時間があったため、その間に、続編たる本書の執筆に取り組んでいたのだそうだ。従って、世間の反応を見てから書いたのではなく、その前から自分の中の構想として、本書は作られていった、ということになる。こうした点を明かしてくれる「訳者あとがき」は、本当に親切だ。
村をよくしようという若者たちの意気込みとその成り行きや、マリラがさらに親のない双子を引き取ることから起きる騒動の数々、さらに身近な人の恋愛事情などを交えながら、次にはアンが再び大学に通うチャンスを得、この次には大学生活が始まる、という希望の中で、本書は閉じられる。これだけでもだいぶ内容を明かしてしまったのではないか、と懸念するが、困難や失敗があっても、それを乗り越えてゆく希望の光が常に道を照らしているという点で、やはりこのシリーズは明るい。やきもきすることもあるが、前向きに生きてゆくことで道が拓けるというように、読者の背中を押してくれるような物語であるのだと思う。
アンもそうだが、アンの周辺には、親がいない子ども、あるいは親なしで育っている子どもが、いやに多く登場する。当時の環境もあるだろうが、モンゴメリ自身がそうだったという点で、執筆した物語により、モンゴメリ自身も癒やされていたのではないだろうか。訳者の指摘から想像するに、私はそんなふうに強く思うようになった。
登場人物たちも、たぶん幸せを求め、感じていることが多い。そして読者は、間違いなく、読むことで幸せを知る。私は、次の幸せを味わいたくて、第3巻を手にするのであった。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド