本

『アンネの日記・増補新訂版』

ホンとの本

『アンネの日記・増補新訂版』
アンネ・フランク
深町眞理子訳
文春文庫
\838+
2003.4.

 アンネの日記は有名な本である。しかし、それを全部読んだという人は、知る人のうちどれくらいの割合であろうか。私もその一人だった。一度読みたい。読まなければならない。その願いがようやく果たされた。分厚いものなだけに、読む時間がないようにも思われたが、読み進めるという点では、他の本よりもずいぶん速かった。それは、読み飛ばしていけるという意味ではない。予備知識がいくらかでもあるのと同時に、語彙や言い回しが必ずしも難解でないこと、もちろんそのためには翻訳者の腕前も関わっているのだが、それに加え、私が、失礼かもしれないが、アンネの考え方と似ている、またその情況における思考回路に私がすんなりと同調できたということが要因ではないかと思われる。
 あれだけの極限状態の中で不自由なアンネと、自由気ままな私との、どこに精神的つながりがあるのか、と非難されるかもしれないが、よくよく考えてみれば、私たちにいったいどれほどの自由があるというのか、また死から切り離されているというのか、振り返ってみるとよい。考えようによっては、私もまた、隠れ家でひっそりと生きているだけの者なのかもしれない。
 いや、それはやはりアンネと、当時命を狙われていたユダヤ人たちに対して、実に失礼なことになるだろう。私たちは、比較にならないくらい自由気ままで、楽をしている。あまりにも安全で平和な世の中で、争いから隔離されているものだと思い込んでいる。そうう立場の者がとやかく批評するべきではない。
 そう。私は批判などをしているのではない。心に通ずるものがある、と言っているだけだ。
 今回の「増補新訂版」というのは、かつて戦後に出た「アンネの日記」から大幅に、内容が増やされているということだ。このことについては、聞けばそれと分かるが、実情を私は知らなかった。そう、大きく捉えると、アンネが母親に対して抱いている感情や説明の部分と、アンネ自身の性に関わる部分である。これは公開すべきではない、あるいはしたくないという、遺族の考えも理解できるし、それはそれでよかった。だが父オットーもこの世を去り、いろいろな事情や背景があるのだろう、かつて隠されていた部分も表に出すことに価値が見いだされるようになった。
 生理用品の名前に彼女の名前が使われているのは有名だが、それにも増して赤裸々な表現で、しかし決して性欲を刺激するようなものとしてでなく、理知的な追究と好奇心などから、自分の体や性についての言及がここに明らかにされている。また、母親への率直な感情が散りばめられてあり、それがあるからこそ、他の言明に意味がもたらされてくる。この公開は、関係者には酷かもしれないが、読者の立場からすると、実に有難い措置であると言える。
 それにしても、文が巧い。これが15歳の文章化と驚く。もちろん翻訳者の腕前もさることながら、それでも元の文が稚拙であれば、如何に翻訳者が巧みであっても、訳文はたかが知れている。ジャーナリストの夢は立たれたアンネであるが、遺された文章は実に詳細まで生き生きとその息吹が伝わってくる、見事なものであったと尊敬する。
 ナチスからの情報は限られている。だが、基本的なところについては、隠れ家においてもちゃんと把握されているということが分かる。その中で、希望を失わず、解放のときを待ち、生きている。限られた空間の日常をこれだけ変化をつけて綴っていけるというのは、驚異的なことであると思う。
 そこで、私の見出したひとつの感想を最後にご紹介しよう。
 どうしても、アンネの日記について、私たちは、この後の運命を思い、不幸な少女の日記だとして見てしまいがちである。ユダヤ人として強制収容所に入れられ、そこでガスではなく、おそらく病気のために死ぬ。栄養状態も悪く、その姿は想像を絶するものであったに違いない。不幸なことである。なんとも悲しい。こういう結末があるものだから、連行される数日前に、ぷつんと日記が終わるのも当然である。
 こうした演出を、フィクション作家が作り出すことはできないだろう。これは真実の、人生の記録であり、若々しくも見事な描写力をもった女性の手による文書である。よくぞこれが後世に遺ったものだと、改めてその奇蹟に感動する。本人も、誰かがこれを読むことがあるのだろうか、と自問するような場面もあるが、もし遺ってこれだけ世界中の人々に愛されているということをアンネが知ったら、驚くことだろう。あるいはまた、確信をもってそうなると予想していたから、さして驚きもしないのだろうか。
 元に戻るが、アンネは物語の結末を知っていたわけではない。最後には死ぬんだ、と物語の作者が考えながら書いているのとは訳が違う。アンネは最後まで、希望をもっていた。日々、自分が生きている証しとして、心を注いで書き続けた。これを私たちは忘れてはならないだろう。悲劇を演出しているつもりなどまるでなく、ひたすら誠実に、真実を綴ったのだ。ここにあるのは、希望である。私たちはナチスに怯えているわけではないが、いずれアンネと同じような運命を免れるわけではない。その中で、同じような希望を抱いて日々を過ごしていくことができるかどうか、考えてみなければならない。
 お涙頂戴の材料になど、してはならない。私たちも同じく、運命づけられているのだ。アンネが抱くことができた希望を、私たちも持てるはずではないか。うなだれることはない。怯えることはない。「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ」という言葉は、マハトマ・ガンジーのものだったと思うが、至言である。アンネは、まさにそのように生きたし、綴った。そのことが、しみじみと伝わってくる。読んでよかったと心から思う。
 なお、価格は私の手にある2007年のときのものであり、その後の変更があることにご注意戴きたい。




Takapan
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