本

『赤毛のアンの翻訳物語』

ホンとの本

『赤毛のアンの翻訳物語』
松本侑子・鈴木康之
集英社
\1700+
1998.8.

 表紙には、赤毛のアンの絵がある。文字では大きく「赤毛のアン」と書いてあり、その半分以下の大きさで、「の翻訳物語」と付け加えられている。これは、内容と一致しない。
 確かに「赤毛のアン」が題材である。その本を一歩も出ることはない。だが、本書は恐ろしいまでに、コンピュータの使用法の詳細なのである。「翻訳」のためという目的であるのなら、「翻訳物語」ももちろん嘘ではないのだが、本書は、実にマニアックな、パソコン利用の実践を文字でとことんレポートしたものと言ってよいはずのものである。
 発行は1998年。当時、私はまだパソコンを通信機器としては利用できないでいた。著者はNECの88から98というふうに使い進んでいたが、私はFM7で終了していた。だが、著者と同様の知識をベースに、パソコンの何たるかは弁えていた。著者は、赤毛のアンの翻訳者である。そのため、原典を知る必要があるのはもちろんだが、問題はその引用である。「赤毛のアン」が、決して子ども向けの本ではなく、相当に大人のための、大人に見合った作品であることを誤解している人もいるようだ。とんでもない英文学、そして聖書からの巧みな引用の宝庫なのである。そもそもアン自身が、英文学に長けているという設定があるのもそうだが、起こる事件についても、またそれに対するアンの反応、登場人物の言葉の端々に、シェイクスピア以来の英語の文献の言葉が鏤められている。明らかに引用と分かるものも多いが、さりげなく引用されると、素人は全く気づくことがないだろう。
 著者は、「赤毛のアン」を、初めて全文訳した。また、綿密な注釈を入れた訳書として出版した。その意気込みたるや、ただのファンだったというだけでは説明がつかないような、執念というか、沼にはまったような恐ろしさすら漂ってくる。その現れのひとつが、このコンピュータを利用した、引用文献探しである。
 もちろん、最初は紙の文献をさがしまくるものであった。図書館を探る。しかもそれは、海外へも赴くほどの熱意である。そこにしかないからだ。それが、ようやくパソコンが活用できるようになる。当初はCD-ROMである。これがまた、何万円から何十万円という値の付く資料となる。それを、惜しげもなく購入する。とにかくそれがないと資料にならないのである。
 著者は、テレビに映っていた姿を覚えているが、間もなく文学賞に輝いた。本当はその道の人であることが分かった。幾らかは、回すお金ができたのかもしれない。だがそれにしても、パソコンも当時は高価だった。いまの高スペックのものとは比較にならない貧弱なものでも、いまのパソコンと同等かそれ以上の値段で売られていたから、相対的に考えるととてつもなく高価であったことになるだろう。しかも、CD-ROMによっては容量やメモリが足らなくなり、増設するようにもなる。CD-ROMが一度に使えるように、ディスク機器も増やす。
 著者に名を連ねている鈴木氏は、そのパソコン利用のアドバイザーである。本書の中でも、章末毎に、そこに書かれたパソコン用語やその意義の解説を付け加えている。コンピュータ技師というわけではないが、かなり使いこなしていた人で、十分頼りになる、準専門家だとお呼びしてもよいだろうか。機器の増設においては、がちっと嵌めこむ様子なども、松本氏が描いているが、この安心できる助言があったから、スペックを上げるなどの操作については、スムーズに進めることができた。素人が独りでこれをしていたら、時間がいくらあっても足りないし、そもそもできなかったことだろう。
 それにしても、懐かしい用語が飛び出す。いまの人が見たら、呆れるに違いないし、書いてあることの意味がまるで分からないだろうと思う。四半世紀を過ぎてこれを読んだ私は、コンピュータの世界では、十年一昔というレベルを超えて、原始時代を見ているようにも感じられる。だが、書いてあることはとてもよく分かる。
 文献を探すことが、インターネットでできるようになったのは、それでも快挙だった。現地に足を運ばなくてよい。しかも、検索で辿れる。いやいや、今の時代の検索を想定してはならない。ちょっとした調査でも、どこに資料があるか分からないから、フォーラムで誰か親切な人を頼って質問を重ねてようやく素量の存在を知るとか、外国の図書館にコンタクトをとって、そういうものがあるかどうかを問い尋ねるとかしなければ、何も分からないのである。デジタルコンテンツがあるかどうかも分からないし、ようやく引用された文を書いた詩人の名前が分かっても、全くその作品が探れない場合も度々あったようだ。
 やっと見つかれば、それを入手するためにまた何万円という額を支払う。そしてまた、その通信すら、通信時間毎に通信量がかかり、ダウンロードに何時間もかかるような場合もあるのだというから、いったい著者はこの翻訳を形にするために、いくら投資したか知れない。普通に考えて、赤字もいいところであるようにしか見えない。
 これだけの苦労と投資によって成り立った翻訳を、私は千円足らずしか出さずに読んでしまう。それが実に申し訳なく思えてきてしまう。
 誤解を招かないように、最後にお伝えしておくべきだろう。本書は、コンピュータの使用歴史ではあるが、「赤毛のアン」の引用についての、巧みなレポートにもなっているのは間違いない。通常の説明の背後に、どのような調査の苦労があったのか、という苦労話に留まらず、モンゴメリの背景にどのような文学があり、当時の人々が何を生活の中で感じていたのか、その空気を伝えるという意味で、本書は類いなきものとなっている。どうしてもその詩の出典が分からなかったのが、ようやく見出されたとき、それが当時の学校の教科書に載っていた、という結末もあった。いまに伝わる名作や、伝えられた意義ある作品というばかりではなく、当時生きていた人にとっては常識であっただけの言い回しというものが分かるというのは、後の時代には探りにくいものである。だがそれこそが、その時代の人々の息吹を感じさせる言葉や作品であったのだ。
 実のところ、それこそが、文学作品の命というものなのかもしれない。歴史の中での文献には、そういう面があるのだ、ということを教えられる。聖書にしても、神学者がまとめた本しかいまに伝わらないかもしれないが、当時その聖書を信仰をもって胸に抱いた人々が感じていた意味というものは、歴史の文献としては遺っていないわけである。だが、一人ひとりのそうした信仰こそが、実のところ神の霊の業であり、聖書の真の歴史というものではないだろうか。
 本書の最終章は、「モンゴメリの家を訪ねる」と題した紀行文のようになっていて、コンピュータの気配を去らせている。ずっと緊張して読み進めていた読者は、最後にきてほっとする時間をもつことができるかもしれない。ハードな話題を読み進めてきた末に出会う、泉の潤いを愉しみにして、順にお読みくださることをお薦めしたい。




Takapan
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