『アルケミスト』
パウロ・コレーリョ
山川紘矢・山川亜希子訳
角川文庫
\560+
1997.2.
パウロ・コレーリョの作品は、先に『マクトゥーブ』に触れた。ブラジルの人気作家で、世界的によく知られている人である。それで、同じ作者の『アルケミスト』というのが一番読まれている本だと聞き、それも読みたいと思った。どうやら世界的によく知られているものだというのに、日本ではこれについてあまり論じたものを聞かない。ここに秘められたキリスト教的な宗教思想が分からないのではないか、と私は想像する。聖書を知っていれば生き生きとよく分かるのに、聖書を知らないならば、何がなんだか分からないことだらけだと思われるからである。
アルケミストとは、いわゆる「錬金術師」である。物語に登場はするが、主人公ではない。あくまでも「少年」が物語を引っ張る。描かれる世界はファンタジーであり、架空の世界である。少年の冒険譚でもあるし、それにしてもストーリーがふらふらして、奇想天外過ぎるには違いない。それでも、冒険の発端ははっきりしているし、目的へ向けての冒険が語られるし、目的についての結末というものもある。
副題に「夢を旅した少年」と付けられているが、正にそうだろう。ある意味で純粋無垢な少年が、羊飼いをしたいと無理を言って独立するものの、ふとしたことで、ある王様から、エジプトにある宝物を得るという運命を知る。そのため羊を売って金を得るが、騙し取られてしまうなど苦難が続く。仕方なしに労働するが、やっと資金ができた。手にするは、王様からもらった「ウリムとトンミム」。もちろん旧約聖書に登場するツールである。
エジプトへ向かう途中で、ついに錬金術師と出会う。いろいろトラブルに遭いながらも、錬金術師と共に知恵を与えられて進むのだ。
こうしてぼんやりと大枠だけは紹介させてもらったが、随所で、読者は自分の人生に向けて、エールをもらっているような気がするのではないか。さりげない表現や、危機に陥ったときの、少年の純朴な、まっすぐな心が織りなす言葉により、目を覚まされるようなことがあるのではないだろうか。
そこには、聖書の知恵が満ちているため、聖書をご存じの方は、優先的にこの少年の旅に同行できる資格があるだろうと思われる。もう遠慮せず、この旅に加わるとよい。
砂漠で出会った少女との運命はどうなるのか、これもまたわくわくさせる。その女性は、男にしがみつくのではないという。旅に出る男を誇り、もし二度と戻らず死に別れたとしても、それでよいという考え方をするのが当然なのだ、ともいう。
さて、先に私が読んだ『マクトゥーブ』であるが、実はこの言葉は、本書でも、特に後半に頻出するキーワードである。本としての『マクトゥーブ』は、いわば箴言集のようなものであったが、そこでも、この言葉の意味は解説されていた。アラビア語で「神により書かれている」というふうな意味である。この物語の舞台は、アラビアとなる。そこで、この語が、時に謎のように、放り投げられる。「神に書かれたもの」は、ある意味で普通の「聖書」と同じである。それは原語で「書かれたもの」という言葉からできているからだ。今回あからさまに「聖書」としてキリスト教色だけのものとせず、アラビア世界をも含む形で、「マクトゥーブ」という言葉を物語に織り込んでいることには、聖書を含み、またさらに広い世界観を醸し出すことに成功しているのかもしれない。
さて、「錬金術師」がタイトルに用いられた。その謎は、読者一人ひとりが考えればよいだろう。もちろん金属を変えるというのが元の意味であるし、実際は金をつくりだそうとするものであったが、人の心もまた、金になり得るものなのだ、と応援してくれているのだろうか。また、錬金術師とは、「宇宙のことば」を知る者だとも紹介されている。なんとも壮大ではないか。
少年は、宝を求めて命懸けの旅をする。宝はエジプトのピラミッドのところにあるという。だが、少年は度々このような声をかけられるのだ。「おまえの宝物のある場所に、おまえの心もある。」この点に、本書の評者は殆ど気づかない。キリスト者ならば、いやというほど分かるはずだ。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイ6:21)
他にも、聖書の思想やエピソードはたくさんある。キリスト者は、楽しみにして読まれたらいい。

た
か
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イ
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