本

『AIに負けない子どもを育てる』

ホンとの本

『AIに負けない子どもを育てる』
新井紀子
東洋経済新報社
\1600
2019.9.

 ベストセラーになった前作『AIvs.教科書が読めない子どもたち』の続編が出た。前作は、そもそもAIには何ができ、何ができないのか、というAIの仕組みを解説することに多くの頁が割かれていた。しかし、それはAI普及のための策ではなく、AI研究の中で明確になってきた、読解力の衰えがおもに中高生の中に見出されたことを踏まえ、このような読解力ならばAIに職を奪われかねないという危機感を訴えようとするものであった。
 今回は、そのAIの仕組みについては前作で理解してもらえたという前提で、教育の分野に終始する内容となっている。私もそもそもそちらへの関心から、前作を読んだもので、今回の流れは歓迎するものであった。
 最初に、前作のあらましを振り返る。その次には、もうAIの内容ではなく、「読む」に突入する。そもそも「読む」とはどういうことか。もちろん、それを哲学的に追究する場合ではない。ここはAI開発のプログラムの中で理解してきた手続きに従っている。要するに本書は、早く読解力の至らなさはどういう部分にあるのかを明確にしたいのである。それで、すぐさまリーディングスキルテスト(RST)のモデルを本書のバージョンとして紹介する。本当のRSTの診断は下せないが、それを本書の読者が軽く体験できる程度にまとめて実施してもらうのだ。
 これが結構難しい。正直、問題の意図が分からないものもあった。素直に読む限り適切に読めるのだが、同意であるかどうか、という点になると、論理学的な領域で検討するべきなのか、ある程度日常言語の範囲内で判断してよいのかどうか、決めかねない場面もあった。また、あまり時間をかけずに読んでいったので、確かに情報を読み落とすということも確かにあった。その意味では、私も浅く速く読む悪癖をいつの間にか背負ってしまっている部分があるのだろうと思った。
 正答となるかどうか、その意義についてもこのテスト後、十分説明される。とにかくAIの開発の中で培っていた考え方に基づくものとしての、正しく読解するためのパターンと問題点を、十分練られた問題によって、生の人間によって確認するという営みであったと言えるだろう。知識に基づく深い意味を尋ねるのではなく、初めて見た単語であったとしても、その定義から理解すべきことが試されているのだから、確かにそれは読解力である。そして私たちも、知らないことに遭遇して、それの定義から近づいていくという場面はいくらでもある。確かに仕事をする上で、あるいはまた日常生活をする上で、必要なスキルであることはよく分かる。既知でなくとも、新たな情報を自分のものとしなければならない場面は、人生でいくらでもあるものである。
 このRSTで測られる「読解力」が教育の場にどう関わっていくか、それがこの後の本書の核心となる。実際学校関係者に、もちろん生徒を含めてだが挑んでもらい、また様々な学力テストなどとの結果ともリンクしながら、教育の現場で見落とされていることは何かを明らかにしていく。
 では具体的にどのような授業で、その読解力は磨かれていくのだろうか。その質問に答えるための模擬授業が紹介される。これが親切であると思った。具体的に何をどのように考えさせるのか、表現させるのか、もちろんこれはモデル授業でしかないのだから、現実にこの通りに進むという訳ではないだろうが、それでも十分問題点は指摘できるし、教師であるならばこの授業の何がよい点なのかは、すぐさま分かるものであろう。いくつかの授業が紹介され、著者としては、ここから新たに高校で導入される「論理国語」の必要性を訴えることにもなるのであろうと思われる。
 もちろん、高校生になってやり始めるのがよいという結論でもない。幼いころから、どのようなことに気をつけて読解力を養う道を調えていけばよいのか、それは十分検証されることなしに、著者の「経験上」気づいたことの覚え書きのようなものとして立て続けに並べられる。本書の頁が尽きてきたのかもしれないが、これは少し狡いかもしれない。ここまでくどいくらいに、RSTの適切な点を論証し、また実践データを繰り出して親切丁寧に検証してきた本書が、最後に子どもの教育方針だけは、思いつきで検証なしに並べるのである。ここまで驚かされながら読み進んできた読者は、検証のないこの最後の提案をも、まるで検証済みであるかのように、鵜呑みにしやすいではないか。事実を十分並べておいて、最後に嘘を以て騙す詐欺の手法と同じだと言われても仕方があるまい。もちろん、著者はこれが思いつきであることを断ってはいるから詐欺ではないのだが、ここをさらにみっつり論じてほしかった。
 あるいは、その検証が、次の著作となるのであろうか。今度は教育学や発達心理学を踏まえ、また、これらの子どもへの教育改革をパイロット校で試したデータを基に、この思いつきを決定的な指針として提示することを、ゆっくり一冊かけてやろうというつもりであってほしいとすら思う。
 私は、現場で子どもたちに触れあう者として、そしてできるだけ速やかに、受験合格という結果を出さなければならない中で、ともすれば根性論や物量作戦に頼ることに後ろめたさをも感じながら指導している者として、著者がRSTの結果からいくらか感覚的に導いたというこれら著者の主観から導いた提案について、思い当たる部分が多々あることは認めるものである。あるいはまた、現場で生徒に対して説明を施すとき、あるいは実際に授業を営むときには、かなりこれらの提言内容をすでに実践していた面が多いようにも感じるものである。逆にだからこそ、このRSTが見せてくれた読解力の危機については、言われなくてもひしひしとこれまで感じていたのであり、それのひとつの改善への道を示してもらえたようで、感謝したいほどである。
 読解力の問題は、日本語を母語とする日本人だけの問題ではない。すでに小学校などには、外国人と呼んでよいのかどうか分からないが、日本語の難しい子どもたちが多く存在する。子どもはすぐに馴染んだとしても、その親が全く日本語を解しないような家庭も少なくない。そのような保護者へいま配付しているような学校のプリント連絡で果たしてよいのかどうかというと、問題があるだろう。読解力の問題は、こういうところにも大きな影響を与えるのである。AIが発展すれば職を失うということだけを煽っているのではない。
 本書の利益を、子どもたちの学校がよきメディアを開いていくことができるような企画のためにすべて用いるのだと記されている。確かにそれでこその本書の主張なのだと驚いたし、感心した。なかなかできることではないだろう。
 だが私は、ここから国語に限らず読解にまつわる指導のヒントをたくさん受けたにも拘わらず、いったいこの著者の目論見だけでよいのかどうか、なお疑問が残る。何かしらできすぎているわけで、見落としている前提のようなものが潜んでいないか、と考えたのである。
 それで私なりに気づいたことを最後に触れる。
 これは前作に詳しいデータがあった内容だが、中高生で、論理的な文が読めていない、という指摘があった。半分もこの文の意味が正しく読みとれていない、などというショッキングなデータであった。しかし、本当にその文は、できれば百パーセント、人々が理解しなければならないものなのだろうか。実用上、これだけ考えさせる、いわば込み入った文には、それほどお目にかかるものではない。実生活上、どうしてもこれだけのややこしい文が読みとれなければ生きていけないというものなのだろうか。もちろん、その例文は実際の教科書から引用しているものもあることは知っている。しかし大量の教科書の中には、ごく一部、そのように理解の難しい文が混じっていたからといって、非難されるべきほどのことではない。それを拾い出して、教科書に現実にあるのに読めていない、とセンセーショナルに言い放つのがフェアであるのかどうか、疑問である。
 そしてその先があるのだが、かつて文を読み書きできるという人間は、ごく少数であった。文字すら分からない人がたくさんいた時代があり、それもさほど昔のことではない。日本では江戸時代に寺子屋があって識字率が高かったというのは世界の中でも驚異的なものであったと言われるではないか。かの時代にこのRSTをしたならば、そもそも問題の意味すら解せない人が大勢いたわけで、正解率は非常に低かったはずである。それこそ前作で強調されていたように、サイコロを転がして答えを選んでも正解できる数学的確率ほどの正解率しかない問題がある云々の世界である。かつてはそれが常識であった。確かに教育が発展した。昔なら潜在的に字が読める者が学校にいく経済力がないために読めない一章を送ったというような(仮定だが)事例があったかもしれないことを考慮しても、いま読めない子どもたちがいるというデータも、人類が高度の論理を交えた文を全員が読まなければならないという切迫した義務感を抱く必要があるのだろうか。数百年前だろうか、文が読めるということだけで、聖職者の特権と同様に裁判にかけられずに済んだというような話も聞いたことがある。古代エジプト時代まで遡れば、ごぐこく少数の文字の分かる書記官というのはものすごいエリートであったのだ。いかに民主的な時代になったとはいえ、人類のすべてが、必ずしも高度な論理構造の文を読みこなさなければならないという前提をもつ必要はないのではないだろうか。
 そう言うと、お前はエリート主義なのか、といった批判が向けられそうである。そういうことではないと私は考える。事実として、このようなこみいった、いわば特別な文を並べてそれを誤解したから読解力がない、というふうに突きつけたり、正解率が半分もないと嘆いたりすることが、どうしても必要な前提なのだろうか、ということである。むしろ、文章を書くことができる恵まれた立場にある人々が、「こみいらず多くの人が誤解なく読みとれる文を書く」社会を目指せばよいのではないだろうか。いま、ある新聞で、非常にやさしい表現の日本語の記事を提供し、アジアを中心とした外国出身で日本に暮らす人々が、情報を得やすいようにと試しているものがある。この方向性こそがいままず必要なのではないだろうか。
 そうなると、高校の国語で「論理国語」を独立させて拡大させていくということが、国語教育にどうしても必要であるというような方向性が、無条件に適切であるとは限らなくなるようにさえ思う。それでいて、一文をできるだけ頭に入れてから一気に書き写すというような、子どもたちへのちょっとした指導改革は意味が大きく、この本で挙げられた提案は、積極的に取り入れてもよいように感じる。これも私の主観に過ぎないのだが。
 それよりも、SNSをはじめ、自己表現をする機会が増えた時代の中で、適切に情報を発信するためのスキルが与えられてほしい。非常に感情的なままに言い放つ発言に心理的な制限をかけることができるだけで、人は不必要に傷つくことがなくなるし、いじめも抑制される可能性があるのではないか。また、言い放たれた言明が論理的におかしいと気づくような能力、あるいはリテラシーも望ましい。それはこのRSTに重なる部分もあるかもしれないが、世間の意見が何かを炎上させているのも、政治家や有名人が大きな影響を与える発言をしていても、その中に論理的におかしいということが指摘できる力、少なくとも簡単にそれに流されて騙されていくことにブレーキがかかるような力が、もっと欲しいと思うのだ。
 個人的には、哲学と論理学をもっと教育に取り入れて戴きたいし、場合によっては宗教学をもそうしてほしい。そのことについては、いまここでとやかく主張するものではないので割愛する。
 とにかく、全員がかの難解な文を読み解けと言わんばかりのムード作りや、国語の改変への棹さしばかりが進んでいくような本書と教育行政の流れであるが、意図的な前提に基づいてそうなっているような気がしてならないのである。 




Takapan
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