本

『旧約聖書の様式史的研究』

ホンとの本

『旧約聖書の様式史的研究』
ゲルハルト・フォン・ラート
荒井章三訳
日本基督教団出版局
\1000
1969.10.

 フォン・ラートと言えば、聖書を解釈しあるいは研究する者からすれば、気になる名前である。多くの本に、その著書からの引用があり、また註に参照されてくる。となれば、先輩方が彼を通して論じている以上、同じ窓から私も見てみたいではないか。
 しかし新しい本ではなかなか出版されない。あっても立派な価格を呈している。では古書ならどうか。これもまた、とんでもない値段が付いているものが多い。希少価値ということなのであろうか。多く出回っていたわけではないし、もっている人は大切に手許に持っているのだろう。欲しい人は安くなくても手を出すという書店の見通しは正しい。
 そんな中で、比較的入手しやすい価格のものを見つけたので取り寄せてみた。それが本書である。比較的易しく書かれてはいるが、主張は明確だし、もちろん専門的な視点が随所にある。
 古代イスラエル人の生活の中から、如何にして旧約聖書が編まれてきたか。単に書かれてある文書を読み解くというだけでなく、それが記されてきた背景を、歴史的に証拠立てられる事柄を基に、現れてくる姿を見つめていく。ちょうど砂山にトンネルを掘るときに、両側から手で掘り進んでいき中央部で貫通の握手を交わすように、聖書という砂山の中で、イスラエル人の伝えたかったことと、私たちの知りたいこととが手を組むかのように、探究は進む。
 ここで取り上げられるのは、旧約聖書の中でも、モーセ五書とヨシュア記までの、イスラエルの古代の歴史を描いた部分である。たとえば創世記の1章と2章との間に齟齬があることはよく知られており、そのためにこれらは別の資料に基づいて記されているものと言われている。しかしそれでもなお、どのようにして異質な資料がひとつの文書に組み合わされていったのかという謎は残る。実はこのような事態は、この冒頭部に限らず、旧約聖書の随所にあるわけである。
 しかし、そもそもどういう意図で集められた資料であったのかというコンセプトを考えることなしに、この構成の秘密に迫ることはできるわけがない。本書はこの系列として、土地取得の歴史と、祭儀文書との存在、また関心を想定する。出エジプトはこの土地取得の典型的な出来事である。しかしその出来事の中でも、祭儀本位の記述がやけに長く挟まれるなどしており、その時には土地のことがすっかり忘れ去られているかのようにさえ見える。このような説明で、聖書に書かれてある多くのことが、そして読むときにぶつかる矛盾のようなものや不自然な記述、食い違いといったものが何に由来しているのかを理解することかできるというのである。
 そして、この旧約聖書の初めの部分ばかりでなく、ここに納められた3つの論文においては、ダビデの捉え方が際立っている。私も思う。このダビデ王への実に詳細に渡る記述はいったい何なのであるか、と。またそのダビデはイスラエルの英雄であり、このダビデの子孫であるからこそ、イエス・キリストはメシアと見なされたのであったから、ダビデの偉大さは半端ないものがある。しかしそのダビデは、他の預言者や父祖たちと比べても、実に人間的に弱く、また失敗を繰り返す存在である。父親としても子育てに失敗していると言わざるをえないし、不倫にまつわる殺人問題は、目も当てられぬ罪である。転げ落ちそうな神の箱を支えようと手を伸ばしたがために神に罰され殺されたウザに比べて、このダビデへの神の偏愛は何なのだろうとさえ思う。
 しかしダビデは、イスラエルにとり、重要だったのだ。このダビデの記録を通して、イスラエルはイスラエルとなっていったのだ。もちろん、創世記が最初に書かれた書であるというわけではないので、ダビデと申命記を軸として、そして出エジプトの出来事を通して、イスラエルは基盤を形成されていく。
 本書は丁寧な訳者あとがきを備え、そこを読むだけでもイスラエルの歴史理解とその学的な状況を知ることができる。古書の中ではまだ出回っている方でもあり、私のような初学者には実にありがたいと思える一冊である。半世紀を経てもなお、学べる本があるというのは、幸福なことである。




Takapan
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