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『旧約聖書の釈義』

ホンとの本

『旧約聖書の釈義』
D.スチュワート
山吉智久訳
教文館
\3500+
2017.7.

 本来これが先で、これの新約版として、『新約聖書の釈義』が書かれたのであるが、日本語訳の出版としては、新約のほうが先になっていた。それがようやく数年後に、元の旧約のほうが訳されて発行されたという事情がある。
 それにしても、文献というものはすごい。これだけすべてに著者は目を通したのだろうか。膨大な、旧約聖書とその周辺文化に関する文献が、いろいろな説明を加える中てさりげなく並べられる。辞書ひとつとっても多数比較されているし、そのどれがどうだというアドバイスもふんだんにある。
 学生への指導ということでもよいかもしれないが、そうとばかりは言えない。これは研究者にとり大変な財産となるだろう。否、タイトルからすれば確かに釈義であるから、説教を作るという視野がそこにある。具体的に、どのくらいの時間をかけてどのように準備をしていくか、という点がひとつのウリであろう。全世界で毎週説教がなされているのは確実であるし、主日の他の曜日にも多々聖書が語られているとすれば、無数の説教作成の筋道があるということになるのだが、では具体的にどのようにするのかとなると、神学校で聞くよりほか、なかなかアドバイスがないような気がする。それぞれの企業秘密というわけてはないのだろうが、いわばレシピが公開されていないし、しようともしないのが大方であろう。自分のやり方を誇らしげに掲示するような真似ができないのかもしれない。それで、本書のような懇切丁寧な指導は、貴重なアドバイスであると言えるだろう。
 もちろん文法や理解については、どのように学び調べるか、大切であろう。しかし、言語の知識だけですんなり訳せるほど聖書は甘くはない。文化的背景、歴史的、文学的事情などを把握し、宗教的な風土や語の用法など実に多様な環境の中で、言語は使われているのだから、その意味を受け取るには、時間空間を超えてここにいる私たちは、あまりにもその景色が見えていないのだと言える。そういうところを探る資料を、たぶん本書は訴えたいのではないか。また、それこそが、解釈者とそのもたらす説教を聞く会衆の求めているところではないだろうか。
 聖書は聖書。腰を据えて向き合わなければならない。しかし意外だったのは、本書はヘブル語についての十分な知識を必ずしも絶対視はしていないという点である。普通ならば、その語学の努力のためにすべてを費やすことから始めよと言いたいのではないか。そこへ、聖書を理解するためには器用にヘブル語を操ることばかりでなく、広い知識と知恵や理解が求められるであろうことを、良しとしているようなのである。教会での説教、そして教育のためには、語学にのみ携わっているわけにはゆかない。それを神の言葉として聞くために、その神と出会うために、媒をする説教者の役割は、主を指し示すことが最大の要件であるとも言えるのだ。
 活用は知らなくても、ヘブル文字を読むことなら少しくらいいけるというレベルであれば、本書を理解するのには何の問題もない。但し、元は1980年の著である。資料は当時のものを反映しており、その後のものについてはあまり得られない。邦訳社は気を利かして、日本語訳の出ているものを特に示し、また著者が挙げていなくても日本語で読める資料がある場合は、訳注のようにして本文に盛り込んでいる。親切だと思う。
 また、インターネットの中の資料についても、その調べ方も含めて多様に教えてくれる箇所が追加されているため、眺めていくだけでも、こういうものがあるのか、と驚かさることがある。方法論としても役立つのであろうが、日本国内ではなかなか知ることのないような良いソースを多々並べてくれているため、手元に置いておき、何かあったらすぐに開くという準備をしておくだけの価値があるのではないかと強く思わされた。




Takapan
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