本

『旧約聖書神学T・U』

ホンとの本

『旧約聖書神学T・U』
G・フォン・ラート
荒井章三訳
日本基督教団出版局
\6700|\6400
1980.1.|1982.3.

 20世紀に活躍した、ドイツの神学者。日本のベテランの神学者の本によく参考文献や注釈などでお見受けする名である。その理由だけで、一度読んでみたいと願っていた。しかし邦訳ものは古いものが多く、また大部であるだけに値も張る。そのような中で、入手可能な範囲で出ていたものを仕入れた。
 旧約聖書全般に渡りまとめられており、読み応えがある。
 イスラエルが証言した歴史事実がある。それは、あるときには祭儀であり、あるときには救いのメッセージであった。それらが混在したままに漫然と旧約聖書を前にするのではなくて、時代時代により、あるいは執筆環境の差異により、イスラエルが神に求めたもの、逆に神がイスラエルに求めたのかもしれないが、聖書という形をとった思想を、クリアに意識していくようにしたい。これは、旧約聖書を前にして、呆然と突っ立っている私たち読者の、誰もが感じることではないか、とも思う。この入り乱れた思想の道について、誰か交通整理をしてくれないものか、と。
 本書は、イスラエルの信仰の歴史や、宗教制度の歴史を浮かび上がらせようとしつつ、その民族の歴史を、土地を得る戦いや営みにおけるものと、王制をとり国を形成していくものとに描き分ける。
 そして偉大なものとして扱われたモーセ五書を扱う。つまりモーセ五書が最初にあって、それから後の歴史が、というよりも、五書は一定の前提があってこそ編まれ、築かれた基盤であったのだ。これはやはり今となっては常識であろう。但しフォン・ラートは、六書という形で、ヨシュア記もこの中の一連の歴史を扱うものとして取り上げる。これもまた一時よく言われていたことのはずである。これはユダヤ教の神髄でもあるので、大きく扱わなければならない対象であった。
 王国にとり重要だったのは、膏注がれた者としての王であった。もちろんこれはキリストというあり方にも受け継がれていくが、決してダビデ一人がそうだったのではない。  このように、著者の眼差しは、「霊的」という名によりある意味でごまかされたような聖書の読み方をするものではない。様々な歴史資料と、聖書に記されたこととを突きつけ合わせることによって、随所で同じ系統の思想が見え隠れするのを引き出してつなげようとする。何よりそれは、イスラエルの歴史に支えられた何かでなければならないはずである。
 下巻はまた圧巻である。預言者について、縦横に語り、筋道がつけられる。その中である預言者とある預言者、というように、一定のつながりが見出される。ある預言者にはある事柄が見えていないかのような書きぶりであるとか、同じスピリットで語る預言者たちが結びつけられるとか、爽快である。こうなると、時代的に末尾にくるダニエルが締め括りとなることも当然である。
 最後には、新約聖書のキリスト信仰に対して、旧約聖書の意義を問う。新約が旧約を読み替えて都合のよいように解釈した、と見る向きも世にはある。確かにそれは自由な解釈であった。だが、信仰というレベルでのそれは、別々の思想であったとはとても言えないものであるだろう。神と人との立場や関係が、変えられてしまったというわけではないのである。そのとき、律法というものが、一つの鍵になるだろう。とくに律法に対するパウロの理解が、基督教の道を決定的にしたことは、否みようがない。この点についての論究は、パウロについてのまたさらなる研究や議論へと展開していくことになるであろうことを予感させながら、本書は幕を閉じる。
 但し、最後に「回顧と展望」という章があり、要するにここだけを見れば、本書の内容が見渡せるという仕組みにはなっている。歴史として旧約聖書をきちんと見ようではないか。人が信じてどう変わるか、それは新約に任せよう。旧約は、それを重視はしない。ただ、神の約束とその成就の歴史的展望は、昔に終わったというものではない。いま変わっていくのは私たちである。私たちの未来へ、この歴史は関わっており、私たちの歴史的未来も、この旧約の世界に敷かれた道の続きとして広がっている。現実的にイスラエルを導いてきた神への信仰は、いまの私たち、そして私を通して、未来をつくっていくものでなければならない。その自覚があってこそ、私たちがこの旧約聖書を読む意義がある。但し、キリストを通してということになるであろうことは当然である。私たちは、イエス・キリストと出会っているのであるから。




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