本

『旧約聖書に見るユーモアとアイロニー』

ホンとの本

『旧約聖書に見るユーモアとアイロニー』
月本昭夫
教文館
\1600+
2014.1.

 まず注意喚起から入らなければならない。タイトルを見ると、旧約聖書の中の様々なユーモアとアイロニーが紹介されている本だという印象を受ける。だが、これは聖書講演集である。学校をも含め、けっこうお堅い場面でも語られたものが、とくにテーマをもって集められたというわけでもなく、五つ揃えてある。そのうちの一つが「ヤハウィストの原初史に見るユーモアとアイロニー」というタイトルである。確かにここには、ユーモアとアイロニーと記すに相応しい内容がある。が、ほかはこれをテーマとしているわけではない。つまり、五分の一だけの内容を、本のタイトルに掲げているのである。こういう場合、表紙に、「講演集」とか「説教集」とか書いてあるのが普通である。その記述によって、読者は通例、これはいくつかの文章が集められていて、そのうちの一つがこうしたタイトルなのだろう、という了解をする。だが何もなしにただ「ユーモアとアイロニー」と書いてあれば、この本全体がそういうテーマで語られているように受け取るのが自然ではないだろうか。たとえば学生がレポートで、旧約聖書のユーモアについて書きたいと思い本を探していたらこの本を知った。ネットで注文したら、自分の関心に合うのは五分の一しかなかった、ということになる。これでいいのだろうか。
 以上は、本としての問題点である。私は、多少がっかりしたが、そこまで深刻ではない。どの話題も自分にとり有意義な内容であって、また注釈が雨後の筍のように並ぶ学術論文とは異なり、一読で理解しやすいありがたい内容であった。だから私が立腹しているのではない。出版の側の良識を問うているのである。
 長らく雑誌「福音と世界」に、詩編の講解を連載していた著者である。ヘブル語からの訳を試み、その語の用いられ方に熟知し、私たちが普通知りえないような情報をたくさん提供してくれるので、実にありがたい。日本語だけを見て自分勝手に解釈を暴走させるのでなく、原語のもつ豊かな意味内容や、意外な背景などを知ることで、目が開かれるような思いをしたことが幾度あったことだろう。今回もまさにそうである。
 最初は、女子中高でのクリスマス会での講演。より一層親しみやすく語ると共に、そこにもずばりヘブル語ではどうのこうのとは言わないけれども、原語の意味合いをちゃんと生かして話す場面もあった。人の心のふれあいが優しく語られている中で、ご自身の生い立ちについて告白するような形で話しているところがあり、驚いた。父親が朝鮮人であったことを臆してきたが、そこに自分の中の見失われたものと出会った経験があったのだというのだ。聞いた生徒たちがどう感じたか分からないが、大人の私たちからすると感慨深い。
 その他、詩編についてや救済使徒創造信仰との関係を問うものがあり、それからいよいよユーモアとアイロニーである。私たちがかしこまって旧約聖書に向き合い、これはこういう意味ではないかなどと真面目くさって話し合っているのをよそに、書いた当人は、皮肉を交えて、あるいはある立場をおちょくりながら書いているのではないかという視点が与えられる。もちろん、人間の立場を再び顧みて神妙な気持ちになるための記述もそうした中にはあるのだが、著者自身の解釈を表に出し、人間同士の意思疎通を困難にする社会への警告がこめられているというように理解する眼差しは、大切なことであると感じた。心の交流の大切さは、最初のクリスマス会での生徒たちへのメッセージでもあったわけで、著者の関心や願いというものが、このようにつながってくると、ほっとする。
 最後のイザヤ書の苦難の僕については、ともすればこれはイエスのことだ、と決めつけて終わりにしてしまう誘惑に駆られるが、イザヤは何を思いつつ書いたかというと、イエス・キリストを考えながら書いているのではないはずであって、ではイザヤは何を見ていたかということになると、いくつか説は聞いていたが、こうして整理してもらうと考えをまとめるのに役立つので助かる。著者独自の解釈のようなものも紹介されているが、表に出て来ないが背後で苦しんでいる人々のことを思いやる可能性というものは、この箇所からは考えたことがなかった。だが、おおよそ著者はそういう思いで聖書を読んでいるということが、このような講演集を駆け抜けることにより分かる。その意味でも、その人の本音が出る講演の原稿をいくつも集めるということには意味がある。薄い色だけを塗ってあるセル(いまどきあるのか)だとその色が感じ取れなくても、その色のセルを何枚も重ねると、次第に濃い色が見えてくるようになる。なるほど月本先生はこういう思いと願いをいつももっていたのだということが、はっきりしてくるという気がした。
 見えないものを見る、それが信仰であるというが、見ようとしなければ見えないもの、気づくことなく無視しているもの、そこへ目を注ぐ眼差しについては、改めて教えられたように思う。




Takapan
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