本

『旧約聖書における文化と人間』

ホンとの本

『旧約聖書における文化と人間』
並木浩一
教文館
\3500+
1999.3.

 説教塾の「想像力」に関する特集で並木先生に惹かれ、入手しやすいものを読もうと思った。これもそのうちのひとつである。「聖書の研究シリーズ55」であるというが、水準の高い著作が、こうして一般的に発行されているというのは、なんとも頼もしい時代であった。
 旧約聖書、特にヨブ記については信頼の厚い著者である。旧約聖書について、思い切り述べてくれる本書は、いろいな人の論文の混じった本の中から、並木先生のものを集めたという形になっている。文明についての広い見識を踏まえはするものの、政治的な情況により分かったような説明を施そうとするものではなく、タイトル通り、「文化と人間」に注目した形で、旧約聖書から知恵を受けようとするものであると言えよう。
 神に言われ、神に祈るといった、私たち人間と神との間のコミュニケーションは、なんといっても重要である。イスラエル民族が、どうしていまなお続くその信仰の基本を定めることができたのか。つまり、多くの宗教は、その国が滅ぶと消えてしまう。戦いに負けることで、その神も負けるということにもなるが、不思議とイスラエルの宗教は、民族がばらばらにさせられても、国土を失っても、途絶えることがなかった。実に得意な実例であるが、考えれば、この神が生きて働くからこそ、そうなっている、と言うこともできるであろう。
 旧約聖書について、様々な捉え方が可能な中で、著者の立場と見解を与えてくれる。特にその、現在と過去との対話に注目すべきであるという読み方は、私も大きく肯くところであった。「激しく追体験しつつ」読むというのが、旧約聖書を前にして私たちがとるべき態度なのである。それはまた、哲学的に世界の原理を説明しようなどというものでもなかった。現代人は、この世界の悪の存在について、むしろ神のせいにすらするものであるが、旧約聖書のみならず、古代文献に広く目を向けながら、時空を超えて広い見地から人間の文化を見つめる著者からすれば、それは愚かなことであるに違いない。
 個人的には、2章の「教育」についての論文が興味深かった。「あとがき」で触れているように、旧約聖書の教育についての考察は、案外少ない。その意味でも本論文は貴重であると思える。
 たとえば、家庭の教育が、公的な視野のもとにあるというイスラエルの常識が、個人主義を豪語する現代の教育の拙いところに、何かヒントを与えているとは思えないか。その家庭教育において、律法を読み聞かせるといった旧約聖書の叙述に、私たちはあまりに無頓着である。家長が、であれ、子に読み聞かせるためには、文字が読めなくてはならないのである。多くの文化で、文字文化は庶民にはなかなか拡大しなかったであろうことを思うと、イスラエルにおける文字の教育は、際立っていると言えないだろうか。
 また、箴言には教育に関する言葉が多数見られるが、どこまでがどのように本当になされていたのか、疑問に思えるところがある。子どもが言うことをきかないときに、町に訴えて殺してもらうようなふうに見えるものもある。しかしそれが頻繁に行われていたというよりは、恐らくそうした規定を通じて、親が神から教育を委託されていること、従って親を敬うのは、神の権威の故に当然のことと理解されていたであろうことが推測されるであろう。
 預言者の活動も、民への教育的配慮を感じることがある。問いかけるような預言は、まさに問われているのであって、それに対する答えを、民自らが出さねばならない。時に事後予言のようにすら見えるものも、一つひとつが教育的な効果をもつかどうかと考えてみると、これがなかなか味わい深い旧約聖書の読み方となるように思えてくる。
 アブラハムやアダム、カインといった人物の出来事を通じて、人間の生き方を教訓として学ぶことも大切であろうか。著者はそうした角度からも、旧約聖書のキャラクターを扱うのが実に巧みであり、確かな知識に基盤をもつ、信頼のおける叙述となっている。かなりアカデミックな香りのする説明も少なくない、まことに読むだけでもハードな本である。それだけに、読み応えのある本であることも確かである。
 この教育の論文の最後に、印象的な主張がある。人は、神の前で正しい歩みをすることがせいぜい期待されることだ、と言いつつ、「人が神のみ前を歩むとは、全能者の視線をあびて震えつつ孤独に歩むのではなく、まず神の祝福の受け手に選ばれること、またそのことによって人々に祝福をもたらす者となることである」と言うのである。涙が出そうになるではないか。「神と人との一新された交わりへの期待」が、そこにあるというなら、もうこれだけで十分な福音だと言えるのではないだろうか。
 この後、旧約聖書の「自然観」や、イスラエル民族についての短いものが続くが、キリスト教のせいで自然が破壊されたという、ありがちな煽りへの対処と、聖書を読む者の動揺のない信仰を、知識という基盤から与えてくれそうである。そして最後に、お得意のヨブ記についての、かなり専門的な論文が控えている。ヨブ記を「文学として」解釈するという観点も頼もしく、そこに新しい解釈や研究が加わって、有意義な学びとなること請け合いである。何度読んでも、いまひとつピンとこないヨブ記であるが、こうした碩学のガイドは、実にすっきりしており、感動する。
 多数引いたラインを頼りに、何度でも辿りたい本である。深く息を吸うことで、神の霊がからだの中に深く入ってくる、そういう経験をすることができるはずである。




Takapan
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