本

『旧約聖書の思想 24の断章』

ホンとの本

『旧約聖書の思想 24の断章』
関根清三
岩波書店
\2500+
1998.9.

 天邪鬼なもので、この本が、講談社学術文庫にあると聞いたとき、オリジナルの方を探してみる、というのが私のよくやることである。というのは、新しい方は定価かそれ以上で出回っている場合があり、元の方がそれに応じてか、値が下がっている、という場合がしばしばあるからである。ひとは、新しい文庫が出ると、ハードカバーのほうは避ける傾向にあるらしい。
 関根清三というと、旧約の権威としてとみに有名な関根正雄の息子である。2022年には文化功労者にも選ばれたが、父の説を尊重しつつも、学問の前では平気で批判する。当然である。そして、かつて日本の旧約聖書と言えば関根正雄と言われたようなものであったが、十分に新たな分野を切り拓いたと言ってよい成果をもたらしている。哲学の方面にも深い知識があり、私たちの探究を牽引していると言えよう。特に解釈学を取り入れた研究は、聖書を読み解くための強い力となっていることだろう。
 新教出版社の『福音と世界』という月刊誌に連載されていたものを軸として、ここに24の記事をまとめた本ができた。特別に専門的な論文というわけではなく、一般の人々に読みやすくしたものだが、内容は決して手を抜いたものではない。
 読みやすさの理由を考えていたが、雑誌連載というのは大きいかもしれない。一定量のまとまりを、翌月号に持ち越すのは、関心を懐き続けさせていかなければならない。その連続性が感じられるのだ。また、各回で理解してもらっていかなければ連載打ち切りにもなってしまうことになるし、考えていることをよく伝えることに気持ちを向けているのも分かる。曖昧にせず、一話の中でくっきりと描いていかなければならない。
 こういう文章の提示の仕方は、憧れるものである。こうありたいと思う。しかも、その背後には、膨大な知識と研究があって、巨大な氷山のわずか一角がここに現れているにすぎないことを思うと、さらに感慨深い。ものすごく大きな犠牲の上に成り立った、ささやかな結論と提案が、ここに浮かび上がっている。それを鑑賞させてもらっているだけなのだ。なんと贅沢な読書なのであろう。
 内容を悉く紹介するわけにはゆかないが、やはり本書の華は、ダビデ王の評価ではないだろうか。ダビデを厳しく取り扱っているのである。
 実は私もその角度からダビデという人物を見ている。ダビデは人間として、かなり拙い性質なのだ。しかし軍事や芸術に特別な才能をもっており、なにより神に対してまっしぐらである。イスラエルの神にとり、このダビデは、人間として優れすぎず、しかしある点で才覚を発揮し、そして常に自分を見上げているつながりがあるということで、可愛かったのかもしれない。
 著者は、このダビデをどう読んでいくのか。もちろん旧約聖書研究の中での捉え方というのがあって、ちゃんとした根拠を以て考察を進めているのであるが、それだけで終わりはしない。また、そこから私たちもこうしましょう、のような安っぽい、誰でも考えるようなありきたりの結論を小さな子どものための教会学校のように壇上で語る、どうしようもない説教者のような真似もしない。
 愛とか奉仕とかをキリスト者は強調することがある。だが著者は言う。「キリスト者は、それでも自分も一個のダビデとして、赦された罪人として、共同責任を負おうとするのでなければならないはずだ。」(p141)そして、自分は社会悪とは関係がなく、悪をなす人々を加害者であり罪人であると言い放ち、自分たちは正しく清い者なのだから、彼らを排除すべきだ、というような考え方をするような輩が現にいるということを明らかにする。それは「独善と居直り」(p142)である、と。社会の甘い実を享受している自分たちこそ、その「加害者・罪人」ではないのか。ここは、キリスト教倫理というフィールドにさしかかるような言い方で、ダビデに触れている箇所であるが、著者の情熱を私は感じた。このようなことは、私がふだんから言っているようなところと強く重なる。著者が大好きになった。
 なお、このダビデの罪について、私が常々気になっていたことも、本書は強い主張で答えを用意してくれていた。ウリヤを殺しておきながら、ダビデが、神に対して罪を犯した、と嘆き、赦される場面である。ウリヤにこそ謝れよ、ときっと誰もが思うことだろう。だが、クリスチャンとなって、「そういうものだよ」風に教えられたり説教を聞いたりしているうちに、ダビデの行為が信仰的ですばらしいもののように、いつの間にか思い込んでしまうようになりがちなのである。
 否、これはやはりおかしい。旧約聖書は、人間の罪を余すところなく露呈させる。ダビデは神に赦されたことは否定しない。だが、ウリヤに対しては謝る気配がないのか。どうやら、そうではないらしいのである。詩編51編は、やはりもっと深く深く味わわなければならない。ダビデは、この事件で、神との新たな出会いも経験したのであろうし、心底ひとという存在とも出会っているように見える。聖書は、いつも深い谷底を私たちに見せてくれるし、それだからまた、光が射してくる喜びをも教えてくれる。旧約聖書は、実に面白い。自分という者を、存分に明らかにするものだからである。




Takapan
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