本

『旧約聖書と哲学』

ホンとの本

『旧約聖書と哲学』
関根清三
岩波書店
\2600+
2008.6.

 父親が関根正雄という、内村鑑三の門下ですばらしい働きをした旧約聖書学者であった。岩波文庫には今なおこの人の訳で聖書が分冊されている。息子もまた、旧約聖書研究を継いだ。ある意味で羨ましいとも思う。こちらは、倫理学者でもあり、倫理方面への発言も多いのであるが、その根拠には、哲学と共に、大いに聖書、とくに旧約聖書を具えているともいえる。
 本書は発行後かなり経っても、書店にずっと並んでいる定評のあるものと思われ、以前からずっと気になっていたのだが、この度機会を得て読むこととなった。なかなか読み応えがあり、楽しかったが、やはり一定の哲学的知識や経験がないと、一般的には読みづらいものではないか、とも思われた。
 しかし読みやすいのは、たんに学術論文を並べたというものではなく、著者の立場を最初に明確にして、読者を助けているせいでもあるように感じた。つまり、旧約聖書に、哲学的解釈学を適用してみようというのである。旧約聖書研究としては、当然歴史的解釈学が必要になる。歴史の中での発生や影響などが議論されて然るべきである。しかし、その意義を読み解くためには、一段超越した視点も必要ではないかという。あるいは、根底に潜り込むような思索であるとも言える。現代からの視点も、現代に求められる理解の仕方も、私たちには必要なのである。後半ではそのように展開するが、前半では、様々な哲学者による聖書の捉え方を取り上げて、様々な立場からの分析がありうることを知る。人間は実に多くの視点を繰り広げており、歴史上の天才たちによるヒントというものを、現代の私たちは精一杯活用することが望ましいのである。自分ひとりだけの穴に当てはめて知ったかぶりをするよりは、遙かに。
 うれしいのは、それぞれの哲学者の思想や捉え方が、丁寧に辿られている点である。当たり前のように思われるかもしれないが、出会う本において、それほど配慮がされていないのが実情である。もちろん、学術論文をそのまま並べたものは、水準が高すぎるので、一般読者がどれほどついていけるかは分からず、そもそも配慮さえされていないはずである。が、一般に向けられた書き下ろしであったとしても、そんなに読者への教育的配慮がなされているとは、あまり私は思えない。曲がりなりにも教育に携わっている身としては、ある程度の理解力のある人には、誰にでも近づけるような道を備えることが、書き手の義務だと思っているのだが、この教育的配慮は、学的研究とはまた別の次元なのである。そこへいくと、この著者は配慮が行きとどいている。というか、そうした説明が巧い。読者が、何を疑問に思うかを先回りして認知し、その穴を埋めておく。心の中に、引き出しの区割りのようなものを作らせ、いまから伝える内容を整理して配置できるようにしておく。これは教育者としての天分でもあるのだが、必ずしも有能な研究者すべてが持ち合わせているわけではない。そういうわけで、実に読みやすい本だと言えるのである。
 もし著者の説に賛同できないとしても、どこで賛同できないか、読者は自分の中で判断しやすいという点でも、すなわち一読してこの本が何を明らかにしているか、が適切に伝わっているということを意味するであろう。また、その点についてのいろいろな学説を整然と学ぶことができるというのも確かだ。学べる本だという点でも、これは立派な作品となっているといえよう。
 私は個人的に、倫理の問題には関心が強いし、終盤に多くの頁を割かれたエレミヤは大好きな預言者である。それで贔屓するというわけではないが、やはり印象的な本の一冊であったということは間違いない。エレミヤと申命記の関係も、大いに参考になり、心の中で整理できた。また次に聖書を読んでみよう、という気持ちになれる。本たるもの、このようでありたいと思うのであった。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります