本

『旧約聖書一日一章』

ホンとの本

『旧約聖書一日一章』
榎本保郎
主婦の友社
\4800
1977.10.

 1000頁を数える大部である。著者は「ちいろば先生」として、三浦綾子さんの小説で特に知られるようになった、榎本保郎牧師。アメリカへ伝道のために出ている先で亡くなった。その直後に本書が出版されている。
 旧約聖書は、章数にして新旧約併せた聖書全体の、78%を占める。新約聖書版も出ており、かつて祈り会で学んだことがあるが、旧約を直に読むのは今回が初めてであった。古書店で割引きのある日に見かけたため、多少値は張ったが、これを機会に読んでいきたいと思った。タイトルは「一日一章」であるが、複数頁を自分に課して読んだが、確かにもっとゆっくりゆっくり読んでもよかったかもしれない。しかし書かれてあることや話しぶりは、まるでその場で語っているかのように聞きやすく、それでいてまた痛いところを時折突いてくる刺激を覚えた。
 しかし改めて読み味わって、この方の開かれた姿勢に驚かされた。ひとつのイメージとしては、今となっては日本の古い伝道者のタイプであるのかしらと捉えられがちだが、聖書の理解については新しい研究を積極的に取り入れ、それを受け容れる懐の広さをもっていることがよく分かったかといって、聖書をただの文献として批評するようなことは全くなく、すべて自分に呼びかけられた神の言葉として対峙している様子がよく伝わってくる。この姿勢が好ましいと思った。
 そもそも榎本保郎牧師は、三浦綾子さんの小説によると、破格な人であったようである。伝道者世界のアウトローである。だから、昔ありがちだった、がちがちの厳しい生活指導や聖書から語る強い圧力のようなものよりも、人間の弱さと孤独などにも共感を懐くような心向きが分かるような気がする。とはいえ、厳しさはある。三浦さんもそうだが、自分の心の中の小さな背反をも厳粛に受け止め、正直に神の前に持ち出す。信仰とは、と度々自らに問いかけるかのように本書の中で繰り返すあたり、決して自分がひとつ見出した原理を押しつけるようなものではなく、自分自身が神から問われているのだという様子を私などは強く感じるのであった。
 だから、聖書のその章の言葉から、自分の経験したことと関連づけて、身近な出来事に結びつけてもよく語ってくれる。そういう点で、本書は旧約聖書の章毎の解説ではない。もちろんその要素はあるし、その章に書かれてあることを最初に概観することは多い。しかし、聖書の解説をしようという気持ちはない様子で、すぐに体験や、ひとつの信仰の事象に深く入っていこうとする。だから、旧約聖書をひとつの契機として、神と向き合う試みだ、という程度に理解しておくほうがよいだろうと思う。それは、信仰生活において、ある意味で最も大切なことではないかとも感じる。
 旧約聖書一日一章ではある。しかし、そのうちの何分の一かは、新約聖書の話になっているのがまた面白い。新約聖書でイエスが云々という場面を持ち出して、その話に没頭していくのも、何度も見かけた。よってなおさら、この本は旧約聖書を解説するためのものではないということが分かる。時に一日分の半分以上がそうなっていることもあるが、旧約を新約の入口として受け取る信仰がキリスト教においてはある以上、それをどうというべきではあるまい。その意味では、旧約聖書を辿りながらの「黙想」が綴られていると呼ぶことも可能かもしれない。それでいいと思う。
 旧約聖書各巻についての短い解説もついている。これがけっこう斬新というか、ちゃんと聖書研究を踏まえていて、それでなおかつ、聖書を神の声として聞きレスポンスしようという思いで、次々と言葉が縄なうように続いていく。もちろん、それは個人の黙想であって、ついて行けないところがあるかもしれないし、聖書の理解として意見が異なる場合もあるだろうと思う。だがその時には、同じ神の前に並ぶ同志として、自分はこう感じたんだけどなぁ、と語らう場のようにして、本書を位置づけるという考え方もあろうかと思う。その意味でも、楽しい本であることは間違いない。厳しい本でもあるのだが。




Takapan
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