本

『八月十五日の神話』

ホンとの本

『八月十五日の神話』
佐藤卓己/
ちくま新書544
\862
2005.7.

 どうして敗戦=終戦の記念日はあるのに、戦勝記念日というものがないのだろう。なにげないある人の一言から、私のもっていた疑問意識がむくむくと芽生えてきた。
 この件について、ネットの中でもそう意識されているようには見えなかった。資料となりうるものを探しているうちに、この本のことを知った。
 新書という小さな、そしてどこか簡易的な媒体でありながら、奥が深く、内容が多岐にわたる。それでいて、ひとつの筋でつながれており、私の出合った新書の中でも、新書としての価値のベストの部類に入る本ではないか、というのが読んだ感想である。入口も、読者の関心を惹くのに適しており、しだいに核心の問題に吸い込まれていく。
 もちろん、その提言や捉え方に、反論もいろいろ現れたことだろう。だが、この本は、思い込みやイデオロギーで綴った、よくある頑固なおじさんの戦争と平和に対する感情の吐露とは違う。とにかく、資料に基づいているのだ。いや、この本自体がひとつの資料集だと言ってもよいくらいである。
 まずは玉音放送の当時の報道の捏造性について。写真や当時の記憶といったものが、実に信頼性のないものであるかが明らかにされていく。そう、この本は「八月十五日」に対してどんな意味があるのか、を探っていくものである。私たちは現在のところ、何の疑問もなく、これを「終戦記念日」と読んでいる。「いや、敗戦記念日と呼ぶべきだ」という反対論もあるが、いずれにしても、「八月十五日」を問題にしている点で、同じ土俵で言い合っているだけである。いったい、この「八月十五日」とは何か。それは、いわゆる玉音放送が流れた日である。今なお私たちは毎年この日を「終戦記念日」として儀式を行い、正午には黙祷が求められる。高校野球でさえ、必ず中断するのだ。
 しかし、敗戦とは何か。降伏文書の調印であれば、九月二日のミズーリ艦上における調印を指すのでなければならないはずだ。あるいはまた、講和条約を以て戦争終結とする考え方からするならば、たとえ数カ国の調印が得られなかったにしても、52カ国の声の合わさった、サンフランシスコ講和条約1951年9月8日の調印、ならびに1952年4月28日の発効を以て、戦争が終わった、とするべきである。国際的な観点からは、この辺りに求めるしかないはずだ。いや、ポツダム宣言受諾の通達である、とするとすれば、それは1945年8月14日である。15日というのは、天皇が前日に録音した音源を、日本国民にラジオで流した日でしかないのであり、しかも天皇の終戦詔書自体、音質もさることながら言語的にも聞いて意味を悟ることのできるような代物でなく、言うなればお経や祝詞を聞いているかのような状態であった。直後の、日本放送協会の和田放送員の解説により、殆どの国民は意味を悟ったとしか言えないだろう。
 こういう状態であったはずなのに、いつしか国民は、記憶として、八月十五日が戦争に終わりだという認識で、それが当たり前だと思うようになっていった。それは、諸外国の立場に立ったものでは断じてなかった。欧米やアジアなどにおけるこの日本との戦争の終了について、とくにその記念日についても、この本は必要最小限のことに触れている。実に興味深い。また、それを教科書の中の記述においても検証する。今も小中学校の扱いと、学問的な意味を含ませた高校の教科書とでは、終戦についての記述が異なるのである。
 そしてこの八月十五日が終戦の日として定まっていくターニングポイントが、戦後十年を経た、いわゆる五十五年体制ができた時期であることを著者ははっきりと告げる。講和条約が発効し、GHQの顔色を窺わなくて済むようになったときから、そして無条件降伏などと当初言われながらも、天皇制の国体護持を勝ち取り独立したときから、日本は見事に戦前からつながる思想の中に戻るのである。ただ、そこには天皇の声により、新たな時代が始まったという宣言があったところに重大な意味がある。
 著者は、ここにラジオというメディアの背景を大きく考えている。その中で、盂蘭盆会ないし盆踊りといった、鎮魂の時期との重なりの問題、そして高校野球の甲子園大会との関係も実は深いものがあることを指摘する。高校野球自体軍隊的であり鎮魂の意図が隠れており、そしてアルプススタンドの応援は、盆踊りのようなものだ、という指摘には唸らざるをえなかった。もちろん、靖国神社の存在も、この関連の中に捉えるべきであることは当然である。
 著者が触れていながら、あまり強調しているようには見えなかったが、私にとり、天皇の祭司性という問題は、この自体の背景にある、重大な原理ではないかと思った。それはクリスチャンにとり、この国と福音とを考える上で、あまりにも大きな基盤であるとさえ、私は感じたのである。
 この本はその後、センセーションを巻き起こした――ようには聞いていない。この本の指摘や提言が大きなウェーブになることもなく、相変わらず八月十五日を終戦として毎年ドラマや特集番組で賑わせるマスメディアと、そう「記憶」している私たち自身が、日本における、もしかすると最大級の問題ではないか、と私は頭を抱えるのであった。




Takapan
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