本

『闇を照らす六つの星』

ホンとの本

『闇を照らす六つの星』
小倉明
汐文社
\1470
2012.12.

 小学生が読めるように配慮されている。中学年ならば読むのに差し支えはないだろうと思われる。ただ、そもそも「点字」というものを、知っているだろうか。近年、学校教育の場でそうしたものに触れることは多々ある。気づく子は、ジュース缶やシャンプーボトルなどにある点字を知っているだろう。駅の発券機や手すりなどにあるのを知る子もいるだろうか。
 手話は大阪私立聾唖学校で守られ、指文字という方法の考案に至った。しかし点字については、恥ずかしながら、その制定の経緯について、私は把握していなかった。何かで聞いたかもしれないが、意識の中になかった。
 この本は、その考案者の生涯を辿る。副題に「日本点字の父 石川倉次」とある。この人である。
 幕末に生まれ、武士の家にて教育を受けた倉次は、教員としての自分に飽きたらず、上京して新聞記者になろうとする。しかしこのあたり、現代の若者の頼りない部分と同様、ずいぶんと甘い行動であったように描かれている。やはり、と考え師範学校に入り、教員になったのは見事である。当時これだけの教養を持ち教授職をこなせるということは、貴重だったのかもしれない。
 明治初期、漢字を廃しようとする「かなの会」という組織があったという。倉次はこれに加わる。暗にこれは、点字を生む素地となっていることに驚く。そこで、小西信八との出会いがある。この小西こそ、訓盲唖院に倉次を招く、運命の友となるのである。
 この訓盲唖院は、宣教師などを中心として、凸字といい、字をそのまま浮き出させたものを触って読むようなことで教育をするものだった。日本語訳の聖書を、というそのフォールズ宣教師・医師の提言で、ヨハネ9章の生まれつきの盲人の話を凸字製作することとなり、そのために明治天皇が現在で数千万にあたる金を出したのだと記されていたのには私も驚いた。
 当時は、ヨーロッパ文化の摂取に励む時代だった。ヨーロッパでは盲人にどういう教育をしているのか。ここで、ブライユ少年の考案した、6点点字のことを倉次は知る。
 ではこれを日本でも、と心は躍るが、アルファベットで片が付くフランス語と異なり、日本語にはかなが50近くある。6点でまかなえるのか。
 ここからは、日本語に適用するために実際に苦労した点が、物語として紹介される。詳しくは是非本書を手に取られたい。幾種類かのかなへの適用の案が競い、最終的には倉次の案が採用される。生活のすべてをこの点字のルール確立のために用いていた倉次はその上で、これは名誉なことだと理解しつつも、これが決定するまでに考えられた他の点字案もこの成立に貢献していることを思いやる。
 その細かな過程も描かれており、興味深い。点字の組み合わせとしては、数学的な数字においてはなんとか五十音をまかなえるのだが、同じ形の点が上下にずれているだけのものは、点字を読む者にとっては紛らわしいことがある。その点が大きな問題となり、倉次だけがその問題を解消する案を提唱したのであった。
 倉次は妻や幾人かの子を亡くすが、自身は長生きする。死の間際まで連日の日記を欠かさなかったと記されている。私もそれに近い。分かるような気がする。だからこそ、様々な可能性のもとに点字のルールを考えるということも、きっとできたのであろう。
 簡単ではあるが、視覚障害者がどのような扱いを歴史的に受けてきたかについて、本の最初のほうに書かれている。これも心に留めておきたい。




Takapan
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