本

『60歳で小説家になる。』

ホンとの本

『60歳で小説家になる。』
森村誠一
幻冬舎新書295
\798
2013.1.

 スポーツ選手なら、若いうちでないと実現は難しい。ゴルフや馬術、射撃などのように、ある程度の年齢でも太刀打ちできる、あるいは年齢を重ねたほうがむしろ優れているようなものもあるが、多くは体力勝負でもある。
 理科系頭脳も、若いほうがよいと一般的に言われている。
 文化系であれば、人生経験や世の中を見渡す力と言った具合に、年齢の必要な場合が増えてくるとも見られているが、それでも、概して遅咲きをわざわざ目指す必要はないと考えられるだろう。
 だから、小説家を目指すにあっても、年を重ねた面々は、もう遅いと思うのが普通であると言える。
 しかし、この本はその常識的感覚を真っ向から打ち破った。また奇を衒ってそうしているのか、と思うと、決してそういうことはない。
 この本が最初に読者に植え付けようとしているのは、一般的職業をリタイヤしたことが、小説を書くにあたって如何に優位であるか、という視点であった。
 それが何であるか、細かにここで紹介することは控える。だが、会社で歯車となって仕えてきた世の大人たちが、さあ退職して何を、というときに、志ある人ならば小説を書いてみることには道が開ける可能性がある、あるいは、それは一つの有意義なやり方だ、ということを説得しようとしているかのようでもある。
 だが著者も文章のプロである。書けば小説家になれますよ、などとは決して言わない。言葉を選び、そうした思わせぶりなことをこの本で魅せようとしているのではないことは確かだ。著者の場合も、社会経験がどうきっかけになったかを示し、社会での働きが小説にとり何らかの役に立つことを、まるで酒の席で本音を語るかのように漏らしているようなものである。そこにどんな良い面があるか、プロでないと知りえないような実態をもちらつかせながら、うまく読者を誘う。
 しかし、ただその気にさせるだけがこの本ではない。なかなか具体的に、実際に書いた後で出会う困難や問題点をいち早く指摘して、それへの対処の仕方も細かく挙げていく。やはりこれは実地の人でなければ示し得ない情報である。こういうのはよしたほうがよい、こういう方法もある、こうした場合は普通このようにされる、など、貴重な声がこの本にはたくさん紹介されている。これを知るだけでも、買って損はない。
 しかし、本当に作家になることだけがすべてであるかどうかは、書く人の気持ちでもある。売り込む気などない人であっても、残された人生を意識するとき、自分が遺せるものに思いを馳せる中で、書くことを思い立った場合、この本に書かれてあることは少なからず役立つことであろう。そうして、やたら文学的なテクニックとか、こうすればよい式の無責任なアイディアではなく、むしろ消去法で、こうしたものは人から受け容れられないとか、こうしたことは書く上でプラスにならないとか、避けたほうがよいことを挙げていく。結局何をどうするかは、当人しか選び得ないことなのであるから、これがいい、ああそうですか、と乗っていくよりも、こういうありがちな罠には気をつけよ、式のほうがたぶん役立つと言えるだろう。
 なかなかうまいところを突いている。さすがだ。
 若干、時に特定の立場の人に失礼にあたったり、またどうかすると差別的に聞こえてしまったりしそうな書き方がしてあるように私は感じたので、もしそれが本当であれば、やや配慮が足りないと見なさざるをえないとは思うが、概ね言わんとしているところは、これから書いてみようという人に勇気を与え、行動を起こさせるような具合に仕上がっている。
 第一、これは60歳になった、あるいはなろうとしている人をターゲットに入れた本である。見た目は普通の新書であるが、活字がひとまわり大きく、行間もゆったりと取られている。つまり、大きな活字の新書である。だから字数そのものは一般の新書と比較して少ないといえ、すぐに読めてしまうものであるが、これはその年齢に近づけば、誰もが有難いと思う配慮である。目次の項目の活字が小さいが、本文については申し分ないと言える。もし、森村誠一氏の本をいくつか読んだような人であったら、ますます具体例がいきいきと伝わり、楽しめる一冊となっているかもしれない。妙な作文教室とは違い、人生論のような書きぶりが、案外、作家になろうというつもりのない人にとっても、楽しめる内容を作っているのではないだろうか。
 もちろん、本気で新人賞に応募したい人にとっても、最も具体的な道案内になっていることは間違いない。そして実際、そういう年代の人が、近年入賞することが多くなっているのである。




Takapan
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