本

『<五感>再生へ』

ホンとの本

『<五感>再生へ』
山下柚実
岩波書店
\2200+
2004.4.

 五感生活研究所代表という肩書きの著者。ジャーナリストかと思ったら、研究者ということらしい。していること、考えていることは分かりやすい。五感の危機を現代の中に覚え、それを取り戻すことを目指すというものだ。本の題からしても分かりやすいし、問題意識そのものもよく分かる。きっと多くの人が、それをぼんやりとかはっきりとか知らないが、意識しているはずである。
 だが、それをどう検証するか。必要なのは、視覚や聴覚などについてのデータを医学的にあるいは科学的に調査することだろうか。しかし、一定の意図や問題意識がなければ、調査する意味がないし、そのデータから何をどうするかということにつながらない。
 本書から見る限り、実施しているのはフィールドワークだ。その意味で、表紙にも見える「ノンフィクション」という言葉が活きてくるようにも思える。
 目次は、触覚・嗅覚・聴覚・味覚・視覚という順番でそれぞれ三つのケースを取材してレポートする。
 触覚からいくと、あるグロテスクとも言える場面を描く映画から入り、身体を傷つける人々のことを取り上げる。それは自分自身を確かめるための行為ではないかと推測する。また、我が子に対する触り方を学ぶ親たちの現状に、人と人とのコミュニケーションとは何かについて考える必要のあることを意識する。触ることを求める様々な形を取り上げながら、人間性の回復をすらそこに見出そうとしている著者の考えも出てくるが、それは確かに最後のまとめにも登場することになる。
 嗅覚については人間の嗅覚の繊細さの事実を告げた後、香りがビジネスに牛耳られ、臭いをなくす方向に進む生活と、いわば偽物の匂いを充満させる生活を私たちの面前にもたらす。匂いには、記憶を呼び覚ます効果もある。いわゆるプルースト効果は、私も経験がある。人とのコミュニケーションにも、元来匂いというものが大きな要素であったはずなのだ。
 聴覚的に、言葉のもつ作用というものがあることから入り、面白いラジオの試みや、朗読会が紹介される。ここまででもすでに、一部で行われている、どこか変わったイベントや企業の営みがたくさん紹介されている。そうした現場での取材から、その営みの意義を探るというのが、おもなスタイルであるように見える。騒音と自然の出す音との関係や、人間に耳に感覚できるという周波数を超えたところの音の効果にも考察を向ける。かすかな声に耳を傾け、聞くというのは、旧約聖書で言えばエリヤの経験に例がある。古代人はきっと……という想像も面白い。
 味覚異常が日本には多いそうだ。亜鉛不足だとよく知られているが、単に成分の問題なのだろうか。むしろ、バランスのよい食事が必要なのではないかということを著者は提案する。食は直接的に生命を支える。しかし現状では、特定の食品が身体に良いとか、逆に悪いとか、短絡的に決めつける報道やマスコミが多い。それは食品信仰であり、望ましいものではないという。むしろそれはファシズムなのだ。また、無添加の罠や味覚教育の必要性を強く提言する。そうでないと、情報に踊らされ、自分で感覚する力を失っていく。著者はそう警告する。
 そう、本書は表紙にもサブタイトルが掲げられている。「感覚は警告する」というものだ。その点、情報量の殆どを支配するとも言われる視覚は、いまさらに、バーチャルなものとしてそのウェイトを増そうとしている。IoT教育がその後本格化していくのだが、画面で見たもので経験したつもりになっていくということの危険性を、改めて指摘する形になっていく。まずは、立体視そのものができない子が増えているのだという。そしてこの視覚、文化的環境により大きく変化することも分かっているのだそうだ。だからますます、環境に気づくことで、良い方向にも転ずることができるかもしれないのである。子どもたちは、暗闇でも声を聞いて歩き進むことができるという実例を挙げながら、五感の連合のようなものの可能性を考える糸口をつかもうとしているようでもあった。
 これらはいずれも、人と人との関係の中へと還元される問題点を含んでいるとするのが、著者の大きな着眼点である。最後のまとめでは、文字のフォントひとつから、たとえそれが手書きでないにしても、教科書体とゴチック体との違いに大きな意味があるという点を指摘する。そうして具体的に、五感を意識した日常生活を取り戻すことの必要性を提言する。
 私は本書を、発行から17年後に読んだ。さすがに当時流行ったのかもしれない、紹介されたビジネスについてはいまは聞かないものばかりだったが、示された危機については解決できたとはとても思えない。むしろ、ますます悪い方向に進んでいるような気がしてならない。教育界ではタブレットが効果的であるように錯覚されている。あるいは、その既成事実に押し切られていこうとする現状がある。手書き文字はとりあえずまだ教育現場ではき活きているものの、電子機器に触れる時間が長くなっていくのがこれからの針路だとすると、本書の著者が危険と考えている領域に完全に入り込んでしまうのは確実である。
 誰がどう食い止めるのか。私は、自分の子に、少なくとも自然に触れる時間を教えてきた。幼稚園の送り迎えの途中で草花に触れ、虫を捕まえた。夏は冷たい川に入り、カニを見つけた。また、ホタルのいる場所で風のにおいと闇の音を聞いてきた。雪玉遊びでも何でもした。実は息子が、高校で、出会った都会の友人が、そうした経験を殆どしていないということを知り、自分はよかった、としみじみ言っていた。私は、親として最低限のことはできたかもしれない、と思った。




Takapan
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