『小説 秒速5センチメートル』
新海誠
角川文庫
\520+
2016.2.
順番としては、コミックスの一巻→実写映画→アニメ映画→コミックス全巻、そして最後にこの小説、という出会い方をしている。変則的なものだろう。コミックス前半で止まっていたのは、何故なのか覚えていない。妻が、実写映画をどうしても見たい、と言うので付き合ったところ、他のメデイアのもの、特に原作の方に向かおうと思ったのだ。
それぞれに、違った。それが結論である。
新海誠監督は、独特の世界をもつ映画監督で、「君の名は。」で爆発的な人気を呼び、その後も力作を送り続けている。どうやら神道がお好きなようで、私は宗教的には抵抗があるが、心の中をよく辿り、それに画面が綺麗なことなど、やはり良質の作品を見せてもらうのはいつもうれしい。
その作品たちは、ノベライズが元になって制作されている。「解説」によると、2007年に雑誌『ダ・ヴィンチ』に連載されていた、新海誠の初小説作品だという。単行本にもなり、2012年には別の文庫となっていたが、二度目の文庫化として本書が出ている。
確か元来、三つの別々の短編だったと覚えている。だが、一つの軸につながるということで、ややオムニバスのように、一つの作品にまとめ上げたのだというのだ。確かに、必ずしも三つがつながっている必然性はないようにも思う。だが、つながっても、もちろん新たな味わいが生まれるとも言える。
これはただの想像だが、新海誠自身の体験を反映しているところがきっとあると私は感じている。もちろん、体験をそのまま文章南果歩化した、などとは考えない。すばらしいドラマに構築したのが、やはり腕前というものである。
どうしてそう感じたかというと、私にも思い当たることがあるのだ。六年生の頃というのは、男の子として、女の子にどう接するか、あるいは好意を抱くか、ということについて、くすぐったいような気もするが、この貴樹くんの心理を、私は私なりにだが、重ねることができるのだ。私の場合は、私の一方的な恋愛感情だったが、それでも一緒に遊ぶということ、そばにいることという点では、どこか似たような接し方をしていたとも言えるはずである。
第一部は、そんな小学校高学年から、中学生までの貴樹と明里の触れあいと別れを描く。まず明里が東京から栃木に引っ越す。文通が続くが、今度は貴樹が鹿児島の種子島に引っ越すことになる。それで、一度会いに行く、というシーンは圧巻である。
第二部は、その種子島の話。高校生になった貴樹に、花苗という少女が恋する。おもに花苗のサイドから描かれているが、貴樹は、その気持ちに気づかないわけではないのだが、気持ちがそちらに向かわない。
第三部は、それから10年ほど経って社会人になった貴樹の視線で描く。女性との関係もそれなりに経験しながらも、何か煮え切らない。小説には書いていないけれども、私の立場から言うと、ひとを愛せないのではないかと思う。それもまた、分からなくもない。臆病なのかもしれない。そもそも人のために自分を投げ出すということがしたくないのかもしれない。しかしまた、煮え切らないその態度は、傷つきたくないという本能めいたものを含めて、いまの若い世代にも響くものがあるかもしれない。その中で、何かしら明里のことが気になって仕方がない自分がある。あの、純粋だった時期、ただそばにいるだけで「好き」という感情すら芽生えた自分が、とても大切なものに思えたのかもしれない。しかしまた、そこに囚われているわけにもゆかなかったのである。
さて、コミックスも、実写映画も、アニメも、それぞれに描き方が微妙に違うし、ストーリーも、大枠は違わないにしても、大切な筋道に於いて、全く違う部分もある。とくに映画は、新海誠監督ではないために、全く別の設定をし、解釈をしていると言えるかもしれない。宇宙を話題にしたベース展開は、映画ならではのものであった。
四つとも、別の作品だと言ってもよいほどである。それはまた、初期設定は同じでも、途中からストーリーが別の可能性に動いてゆく、キャラクターを用いたプレイイングゲームの展開を見るような思いさえしてくるものであった。
中でも小説は、一番肉々しいものがあるかもしれない。映画は、アニメも実写も、山崎まさよしの歌がグッとくる。が、さすがに実写は、新海誠も泣いたという話だか、泣かせるものがあった。
読者あるいは鑑賞者は、それぞれの速度を、自分の中に感じるかもしれない。それぞれのストーリーが、また別の「秒速5センチメートル」をもっているのではないか、という気がしてくる。私の中にも、それがあったように。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド