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『現代思想2023vol.51-10 9月臨時増刊号 総特集 関東大震災100年』

ホンとの本

『現代思想2023vol.51-10 9月臨時増刊号 総特集 関東大震災100年』
青土社
\1400+
2023.8.

 1923年9月1日の正午1分半前、推定神奈川県を震央とする巨大地震が発生。関東全般を呑み込み、犠牲者は、これも推定であるが、10万人以上であったといわれる。このため、いまもなお「防災の日」は、この9月1日に定められている。
 2023年は、それから百年の記念すべき年である。直接知る人は殆どいないけれども、この震災は、大きな意義をもって見つめられている。その後「震災」と呼ぶものとしては、阪神淡路大震災と東日本大震災を、私たちは最近経験したが、この近年の震災にはなかった、とんでもない事件が起こっていたからだ。
 本書は、青土社の「現代思想」という誌の臨時増刊号である。思想的にもずいぶんと穿ったものを世に問い続けてきた本誌は、私も学びのために、関心深いテーマのときには時折購入して読んでいる。今回も、関東大震災の被害状況や復興について詳しく研究されたものだ、とは考えなかった。大体どういう角度から攻めているかを予想しながら取り寄せたのであるが、案の定、200頁近い本誌の殆どが、ある事件を取り扱っていた。
 それは「朝鮮人」の虐殺である。
 万一、この話を知らないという方がいたら、ぜひ少しばかりお調べ戴きたい。ここでその詳細を説明することは控えることにするが、骨子だけを挙げておくと、震災直後、朝鮮人が火を付けたり、毒を水源に蒔いたりしているという話が起こり、それも公的な組織が注意喚起を促したために、住民間でも「自警団」なるものがつくられただけではなく、朝鮮人を見つけ次第次々と勝手に暴力を振るい、殺害も相当数行ったという出来事である。それを罰されるということは少なく、特に軍人関係では、この私的な成敗が問題にされることはなかったという。
 本誌では触れられていなかったが、とある有名な報道機関の人物がその発端部分で大きな影響を与えた、という話もある。実際、火や毒について報道したのは、当時随一のメディアであった新聞であり、それが事態を広めたことは否めない。
 ヘイトスピーチどころではない。どさくさに紛れ、しかも緊急事態ということで、何の問題もない人々が、朝鮮人というだけのことで殺されていき、しかも殺すことが正義とされていたのだ。もちろん、その根拠たることはデマであったはずである。
 その犠牲者数は、定かではない。数千人という計算もあれば、当局の発表では200人余りだという報告もある。
 差別感覚の極みでもあると言えるだろうが、実に恐ろしいことだ。しかも、朝鮮人だと見破るために、朝鮮の人の発音しづらい日本語を言えと迫り、それが美しく言えなければその場で殺す、ということもあったという。関東出身でない日本人がその検問にかかり殺された例も少なくない。そして、ろう者がそうやって殺された事例もある。ろう者の件についてのレポートも本誌にあったが、それがろう学校での手話の禁止と口話教育へ突き進んだことに関与しているということは、これまで私も見落としていた。
 詳細を説明しないと言いながらも、ずいぶんと文を重ねてしまった。事態はもちろんこれに限らず様々な問題点を含んでいるが、本誌の論文の一つひとつが、こうしたことを踏まえて綴られている。
 当時のことを記した金子光晴など文筆家の記録を探ったものもある。1906年のサンフランシスコの地震に遭遇した、幸徳秋水を追いかけたものもあった。
 震災により、寺院も多大な損害を受けた。墓地問題を扱ったものもあり、都市建築を考察したものもあった。当時はアメリカでさえ、やっと女性参政権が生まれた直後であった。女性という視点から、震災とその後を見つめる眼差しも大切なものである。
 映画を観た故に個人的に印象の残ったのが、「惨事の見落とし」と題した文章であった。映画「風立ちぬ」を辿ったものである。確かにあの映画の主人公はおかしかった。後に結婚する菜穂子と二郎が出会うのは汽車の中であり、その汽車で関東大震災に出会う。その描写は多少象徴的であり、東日本大震災の2年後に公開されるためには生々しい描き方ができなかったのも当然ではあるだろうが、しかしそれにしても、震災後の風景までもがすべて、生々しいものを何一つ残さなかった。否、そこまではよい。その後も、二郎は軍機の設計のために、いわば自分の趣味だけに没頭してゆく。さらに人間関係としては、専ら女性とのものしかそこには殆ど描かれない。時代の空気というものに、意図的にか、あまりに「不注意」なのだ。大切な世の出来事に気づいていない。気づこうともしない。あまりにメカニズムに没頭しているかどうか知れないが、強いバイアスがかかりすぎているように見える。それは、結核のために「死」を意識する菜穂子と、その「死」を意識しきれない二郎との間のズレになって展開もする。
 こうした、映画の難点を突くためだけに文章を綴っているのであれば、私も魅力を感じることはなかった。だが、読んでいくうちに、私は次第に文章の着地するところが見えてきた。そう。いまここに置かれている私たちも、この社会が向かおうとしていることが、見えていないのだ。自分のしていることが、分かってやいないのだ。後から振り返れば、二郎の見ているものが「おかしい」と批判もできようが、その時そこにいた彼にとっては、それに気づかなくても、決しておかしくはなかったのだ。だから、いまの私たちのものの見方というのが、万全なのではないし、まして正義そのものであるのでもない。時に、別の視点をもつ者が、これはおかしいよと指摘することはあるが、それさえも耳に入らないし、そういう者のほうが「おかしい」ように、多数の者は見てしまうのだ。私たちは、えてして「自分のしていることが分からない」のである。私たちは、あの二郎と同じなのだ。
 私たちは、いま誰を殺しているだろう。殺そうとしているだろう。実はそのことはちゃんと視界に入っているはずなのに、心がバイアスをかけて、見えないことにしているのではないか。差別されている人のこと、困窮の中にいる人のことを、ニュースで聞いても、全く気にしないで生きていける。動物の殺処分と聞いても何も感じないで、自分たち人間が動物たちを勝手に追いやって邪魔だと殺しているに過ぎないことを、あまり考慮もせずに当然の正義だとしている。
 だから、せめてまずそれを問うところから始めなければならない。そう問われていることを意識する視点を、こうした本は開いてくれる。




Takapan
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