本

『現代思想2023vol.51-4 カルト化する教育』

ホンとの本

『現代思想2023vol.51-4 カルト化する教育』
青土社
\1600+
2023.4.

 前年の安倍元首相殺害に関して、カルト宗教の問題が世間に挙がってきた。そういう言葉が耳に馴染んだことで、「カルト」という言葉がかけられてきたのだろうか、と勘ぐるところがある。元々、定期的に「教育」問題を取り扱う論誌である。大学のあり方に対して厳しい眼差しをしばしば向けてきたが、今回は教育一般である。
 最初の討論が、「新自由主義再編下の宗教とイデオロギー」と題した形で、大内裕和氏と三宅芳夫氏によって展開されている。この視点が、全体のひとつの方向性を出している、と理解できるだろう。そこでは、自民党が推している新自由主義に対して問題視する対話が続いている。その背後に統一協会があったことで、「カルト化」が関わるのかもしれない。しかし、「現在の自民党は統一教会、実践倫理宏正会、そして創価学会の三つの宗教団体の支援なくしては、実質上選挙を戦えなくなっている」と述べるように、宗教団体は様々なものがあることをきちんと伝えている。
 1970年代後半辺りからの変化を捉えつつ、この半世紀の変遷から、社会の変化と共に教育の意義づけも変化していることが説明されていく。そして、平等と学歴との重視から、努力論と自己責任論につながっていることが指摘される。それは、誰かのせいにする思考へと流れ、マイノリティを攻撃すること、やヘイトスピーチなどへとつながることを意味する。私たちは、こうした時代の中での、意図的であれどうであれ、知らず識らずに連れて行かれようとしている動きに目を覚ましていなければならないであろう。
 全体的に、教育現場の手法ということではない。教育を通じてどう世の中が動いているのか、動かされているのか、そうした広い視点が置かれている特集であるように思われる。
 政治的文書や裁判資料など、公的なものを基に検証されていく論文もあるが、私はその中でひとつ、哲学というものを問われたものにここで注目してみようと思う。「哲学はどのような意味で現代日本の学校教育に求められているのか」という、土屋陽介氏の文章である。
 哲学が日本の学校教育に求められている、という考えがそこにある。道徳がひとつの教科とされた。それは「考える」「議論する」ということを目指す。このように、いま道徳の教育で、哲学を活用しようとする動きがあるという。それは、これまでに確かになかったことである。高校の「公共」へとそれは結実する。だが、その目的は、「自分たち自身で問題を考え、議論や対話を通して探究を深められるようにすること」であるという。先哲の思想をや知識を求めているわけではない。あくまでも「方法論」である。
 それは、哲学の「道具化」であり「心理学化」である。それでは、「批判的思考」という哲学本来の意義を身につけることにならない、と論者は指摘する。いわば、どう適応するかを模索するために頑張れということであり、自己責任的に切り抜ける道を求めよ、という程度のものでしかないのではないか、と私は感じる。つまり、いいように飼い馴らされていくだけのことになりはしないか。
 論者は、さらに「他者と出会うこと」の必要性を挙げ、そのためには「先哲たちの思想内容を体系的な学ぶこと」が求められて然るべきだ、と主張する。それは、自分の中から議論のタネを持ち出すことではない。外からの声である。他者の声である。先哲たちが悩んだ問題を共有して、その苦悩して辿った思索と出会い、そこから「問いかけられ、揺さぶられる」ことを通してこそ、「批判的なまなざし」を、自分について、そして恐らく社会や世界について、もつことができるようになるのである。
 哲学という名を利用して、「方法」の側面だけを取り出して、それで哲学をしたような気分になることを求める、そこに大いに疑問を呈しているわけである。「自身の頭が揺さぶられる」ことを経てこそ、時代と社会を「乗り越え」て新たな世界を「切り開く」ための、真の「批判的で創造的な思考力」を身につけることができるようになる。それが論者の結論である。
 妥当な意見であると私は思う。そもそも、日本の教育において、哲学がなさすぎたのである。高校で「倫理」というマイナーな学習をした者だけが、かろうじて世界の哲学者の名前を何十人か知らないが見る程度である。文学者と著作とに比べても圧倒的に少ないだろう。まして、その思索の意義について、いったいどれほどのことがそこで学ばれているのか、甚だ心許ない。しかもそれさえ選択しない高校生が、大学に溢れている。哲学について知識と方法とを学ばなければ大学というところに入ることを許されないような国々とは、全く比較にならないのである。
 これでは、カルト宗教にずっぽり嵌まるのも、あたりまえである。カルト宗教の説く世界観に驚き、これが真実だと動かされるのも当然である。教育の中で「揺さぶられる」経験がなくして、どうして思索ができるのか。ただ飼い馴らされるために、少しばかり問題解決の方法を学ぶというだけのために、哲学が利用され、それで哲学が分かったかのように錯覚させるというのは、実に卑怯である。私は常々そう考えていた。
 まだ若い筆者の、これからの活動に期待したい。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります