本

『三行で撃つ』

ホンとの本

『三行で撃つ』
近藤康太郎
CCCメディアハウス
\1500+
2020.12.

 ある人がSNSで紹介していたことで気になった。文章を書くための本だという。書店に行くと、この種の本はゴマンとある。ビジネスマンのための啓発本というのだろうか。文章の書き方などという。小学校時代から培ってきた言葉との付き合いというものが、千円余りの本ですべて解消されるのだったら、苦労は要らない。そんな虫のいい話があるはずがないだろう。
 サブタイトルがある。<善く、生きる>ための文章塾。そう書いてある。ソクラテスならば、「善く生きる」で十分である。あくまでも善を求めるからだ。だが、ライターは違う。書くのだ。そして、生きるのだ。だが、闇雲に書けばよいというものでもない。そこに架け橋となる「善く」、これを感得するために、この本はあるのかもしれない。どうして書かなければならないか。書くなど、生きるために必要ないではないか。いくらそのように言われても、ひたすら書くのだと答えを返すしかない者がいる。何故かと問われても、言葉を返せない者がいる。どうやら、私もその一人に違いないのだが、そういう者のために、本書は書かれたと言えるのかもしれない。
 著者のプロフィールについては、どうぞお調べ願いたい。本書の内容を知りたければ、どうぞ購入してお読み戴きたい。この「購入して」という部分も、読めば意味が分かるようになっている。
 タイトルの意味くらいは明かしてもよいだろうと思うが、予想に違わず、文章は最初の三行で読者に気に入られるようでなければならない、ということで、そこをどうするか、という方法についてのスタートが、確かに本書にはあった。しかし、だんだん雲行きが怪しくなる。そもそも書くとはどういうことなのか、哲学的な考察のようにすらなっていくのである。しかも、ライターとしての著者の経験やエピソードもふんだんに出てきて、説得力がある。決して抽象論ではない。
 いや、それも失礼な話であろう。自分は何故書くのか。書くとは何なのか。著者は自分自身と闘っている。それでいて、闘う以前に、自分は自分であるというような叫びがあり、この自分とはこれであるという生き方そのものを、書くということで表現しているのだ、というようなことを、書いている。ここにパラドックスのようなものがあることさえも踏まえた上で、書くことが生きることなのだ、というままに暴れている。すると、そのような出来事のすべてを含んだ形で、私が私であるのだろうというようなことにもなるだろうし、事実そうなのだという気がする。
 書くことで、何もなかった無から、有が生まれる。書く者は、それを体現するのだ。その言葉は、事態のすべてを表すことはできないのかもしれないが、少なくとも自分が感じたと知り、考えたと思うことのすべては、言葉に必ずできると著者は考えている。そうして書くことにより伝えることができるということを、信じている。それは証明できないのだろうが、こうしていま現に書いているではないか、ということで、事実があるのだと言えるのだ。
 すると、自分が最初に計画したもの、自分の中にあったもの、それを言葉として表していくのだ、というふうな理解をする人がいるかもしれない。しかし、私もそうだが、こうして言葉を連ねていくときに、その先をすべて計画しておいて、それを一つひとつ言葉にして置いていくようなことをしているわけではない。次にどうなるか、予想さえできないままに、私たちはふだん喋っていないだろうか。次に自分がどう言うか決めているのは、暗記したスピーチを語るときくらいのものだ。言葉を発するというのは、音の流れの中に、ただその都度自分が生きているそのままに、自分の人生を形にしているようなもので、一瞬先ですら、すでに決定したものであるということはない。書くことも同じだろう。この言葉が次にどうなるのか、どこへ行くのかすら、自分が頭に決めたとおりに進むものではないはずである。つまり、書くことは私が生きることであるということにほかならないのだ。
 そして書いた後で、自分がそこに遺したものが、恰も自分の中からではなく外から現れたかのように、出会いの経験する覚えて、感動するということがある。これは特に、キリスト教における説教を綴るときに痛感する。これは自分が考えてつくり出したものではない、与えられたものである、としみじみ思うのだ。
 与えられる。それを神からとしてしまうところが、自分が神に生きていることの証しではないだろうか、というふうにも考えたい。そこが私の<善く、生きる>ことである、などと言うと、本書の著者からはずいぶんと逸脱してしまうことになるだろうとは思うが、正直な私の見解でもある。




Takapan
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