『三位一体』
土橋茂樹
中公新書2866
\1100+
2025.7.
「三位一体」は、キリスト教の根柢の部分にある教義である。だが、エホバの証人の創始者は、それが分からなかった。しかし悔しいので、聖書には「三位一体」という語は一度も出てこない。だから虚偽である。こういう論法を説いて、組織の者に伝道させている。
聖書の中に出てこない言葉が信仰とすべて無縁であるならば、「エホバの証人」も「王国会館」も、聖書には出てこないだろうから、虚偽であるというこになる。
ところで「三位一体」という言葉は、世の中で気軽に用いられる語でもある。不思議と、多くの人が正しく「さんみいったい」と読めるのも不思議である。しかし、「他力本願」は、浄土真宗の抗議が実り、比喩の意味ではあまり用いられなくなってきた。キリスト教がいまだに「狭き門」などの言葉を誤解させるままに使わせているのは、寛大なのだろうか。
つまらない話題はさておき、本書は極めて真面目な本である。副題に、「父・子・聖霊をめぐるキリスト教の謎」とあるから、本書のエッセンスはもうこれで十分であるのかもしれない。
確かに、少しばかり「三位一体」の概念については調べたことがある。大雑把に礼拝説教で語られるのはまだしも、何かのために少しばかり読み込んだとしても、それでも、本書の綴ることと比べたら、あまりにも貧弱な知識でしかないことを思い知らさせた。
この一言のために、新書とはいえ、一冊を費やすのだ。参考文献のいくらかの頁を含めても、280頁がここにある。
本書の帯がいい。表側には、「神とはいったい何なのか?」と大きな文字であるだけ。裏側には、多少の文章が書かれてあるが、標題のようになっているのは、「長く激しい論争の争点は何だったのか」というものだ。帯が、こんなにも説得力のあるものだとは、これまであまり考えたことがなかった。
さて、父なる神と子なるイエス・キリスト、そしてその二つの姿に比べたらイメージの湧きにくい聖霊、これら三つが、実のところ一つであるという、それが「三位一体」の教義である。どうして三つの神であってはならないのか。「ほかに神があってはならない」という十戒を始めとするイスラエルの根本原則に沿わないからだ。だが、やはり門外漢は問う。それは一神教とは呼べないのではないか。
聖書を読めば、この父と子という関係は、特にヨハネ伝では頻繁に語られているし、訣別の説教の辺りを見ると、もう父と子はひとつでよいのではないか、というふうに思えてくるかもしれない。しかしそこへ、同時に聖霊が混ざり込む。教会によっては、聖霊も神であるのだから、「聖霊様」と呼ぶべきだ、などとも呼びかける。だが聖霊に人格的なものを、私たちは感じにくい。
そもそも、その「霊」なるものの位置づけについて、もしかすると日本人は、西洋人とは異なる感覚をもっているかもしれない。そこで、先走ることはお断りするが、本書が説いて歴史的な事態を幾ら明らかにしたとしても、日本人に対する伝道に於いて、この「三位一体」の論争というのは、脇道を走る電車のようなものに見えてしまうかもしれない、という懸念を私はもつのである。
それはさておき、西欧に於いての歴史の中での論争であるが、東方教会と西方教会がなお一つとして働いていた時代に、すでに七つの公会議が開かれていた。325年から787年の間のことであるが、その都度、たとえばアレイオスに異端宣告をしたり、ネストリオスに異端宣告をしたりして、幾つかの紛らわしい説を退けてきた。こうして、私たちが伝統的なキリスト教と理解する信仰の教義ができあがってゆく。これらの公会議の中で、ニカイア信条やコンスタンティノポリス信条、カルケドン信条といった、正統信仰と言えるものが、他の説を篩にかけるかのようにして、成立してゆく。
それはまた、ギリシア哲学との融合の中での出来事であったのかもしれない。当時の人々はそう感じていなかったとは思うが、いまとなっては、そう私たちには見えて仕方がない。新プラトン主義が教義の成立にも加担したほか、イスラム教の成立に伴い、東方で保存されていたアリストテレスの哲学が逆輸入されるかのようにして流入し、特に、後にトマス・アクィナスがそれを核心に据えてからは、哲学的な論争を基に、莫大な量の文献が成立してゆくのだった。カトリック教会にとっては、それはいまもなお金字塔である。
こうした教科書的な理解は、それなりの説明や、事典の説明で把握できるであろう。だが、やはり「三位一体」の教義が成立するまでの人々の疑問とそこから洗練させてゆく営みなどは、知る由もない。まして、政治的な背景も考慮に入れながら、論争の処理がどうなされたかということなど、本書のようなものに首を突っ込む時間がなければ、触れることもできなかったことだろう。
ではこのキリストは神であるのか。そもそもそうしたことが問題視され、各地から偉い人たちが呼び集められて会議をする、ということ自体、キリスト教はすでに立派な大宗教になっていたものだ。ローマ帝国が信仰を認め、また国教扱いにした経緯などについて迄は、本書はさすがに説明する場所をもたないが、その代わりに、専ら聖書の概念を、そしてそれを哲学的にどう証明するか、というような営みの過程について、一つひとつ引っかかりををもちながら説いてゆく。
オリゲネスやバシレイオスなど、後に伝わる巨人の名も現れるが、それが実際にどのように足跡を遺したのは、それは直に読まれた上で感得して戴ければいいと思う。「三位一体」の教義ができあがるには、ずいぶんと回り道をしたかのように見えるし、手間取り、時間を費やした。ほぼほぼの完成はあったものの、その成立に大きく貢献したのは、やはりアウグスティヌスという存在であった。本書は、そこに一つの結末を呈する。
だが、短い最後の項目が、ユニークであるし、意義深いと私は思う。それは、今後の「三位一体」の信仰がどうなってゆくか、考察しているところである。近代哲学の理性が根柢となった思想が、やがて神なしの世界を構築するのはもちろん大きいことなのだが、それよりも著者は、もっと教会内での変化というものを問題視している。たとえば自由主義神学が、何をもたらそうとしているのか。バルトが一時持ち直したようでありながら、余談を許さない状態にある。これからどう変化してゆくのか、目が離せないという。
実のところ、これからどうなるのか、決めることはできないという。だから、「我々はようやく麓のベースキャンプを設営し終えたに過ぎない」(p270)と語り、本書がこれからのアタックに役立つのであれば喜ばしいと述べて筆を措く。
「三位一体」を含め、キリスト教の教義は、まだこれからの道がどうなるのか、分からないのである。それは同時に、そもそもキリスト教というものが存続するのか、という心配にも関わることになるかもしれない。少子高齢化が教会に適用されて久しい。まだ安穏としている私たちクリスチャンの中に、適切にこうした歴史を知ることによって、適切な危機感を抱くことができるようにならねばならない、と私は心の中で案じている。
なお、著者はReal Sound|というウェブサイトの取材の中で、こう最後に告げている。「宗教・哲学・歴史を横断的に考える人にぜひ読んでいただきたい」と。私は読んでもよかったのだ、と少しうれしく思った。

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