本

『三びきのクマ』

ホンとの本

『三びきのクマ』
トルストイ
小宮山俊平訳・ヨシタケシンスケ絵
理論社
\1300+
2018.2.

 この「世界ショートセレクション」、ちょっとはまっている。表紙や各話の初めのイラストを、ヨシタケシンスケ氏が飾っているのも、魅力である。だが、子どもにも読める気軽さと、短編であることに加え、そのセレクションの確かさ、そしてハードカバーの手に取りやすさなど、なにをとっても、見事なシリーズだと言ってよいだろうと思う。
 でも、どうして『三びきのクマ』なんだろう。この短編集の中でも最も短いと言えるし、内容は、よく知られた絵本のお話である。トルストイらしさが出ているとも言えるが、とりたてて騒ぐほどのことはない。やはり表紙にするに相応しいインパクトをもつ、ということなのだろうか。
 晩年トルストイは、キリスト教信仰を篤くし、その教えを説き明かすような物語を書いている。本書にも、その一部が収められており、個人的には読んだことがあるものがいくつもあった。しかし、有名な『靴屋のマルチン』(本当の題は『愛あるところに神あり』)は含まれていない。あまりにもキリスト教色が強すぎると思われたのだろうか。聖書の話は分からないと思われたのだろうか。それにしては、『人は何によって生きるか』という、聖書の中身がたっぷり詰まったような作品が、最も長い頁を費やして本書の中心部にあるのか、という点が不思議である。
 自分では覚えているつもりでいた、『人ひとりにどれほどの土地が必要か』の前半部分を、私は完全に忘れていたことを知らされた。トルストイは、単純に現場にキャラクターを配置せず、その性格や背景について、綿密なストーリーを前置きとして準備していることを、今回改めて教えられた。トルストイとくれば長編の名作が誰にも思い起こされることだろうが、長編小説に必要な前提が、短編の中にも生かされているような気がするのだ。
 ほかにも『小悪魔がパンの恨みをパンで晴らす』などは、芥川龍之介の『煙草と悪魔』をちょっと思い出させるようなものだが、人間の中に巣くう罪業のようなものが、実は悪魔の正体であるかのような描き方も、共通しているように思われる。たとえ「悪魔」の存在が否定されていようとも、人間の中に、そいつは宿っている、というミステリーである。これは実は、ただ事ではないのだ。
 エメリヤンと王様を描いた『カラッポの太鼓』は、日本でも似た動機のものがあって、たとえば「絵姿女房」のように、権力者が美人を無理矢理召すことでその夫が嘆き悲しむのだが、この場合は女房の知恵が権力者に勝ったことになったが、トルストイだと、預言者のようなおばあさんが不思議なことを引き起す。
 『三人の息子』は、決してクマが息子に入れ替っただけの話ではない。ただ、最後に「説き明かし」があって、「たとえばなし」の意味を、トルストイ自身がご丁寧に解説してしまっている。文学ではありえない措置なのであるが、どうしても自分の言いたかったことを説明したかったのだろう。やっぱり必要だったのかなぁ、とまだもやもやしている。
 主の祈りをテーマにした『白海の奇跡』は、もはや教会でしか話せないような内容かもしれないが、日本でも仏教的童話のようなものがあるとすれば、キリスト教文化では、そんなふうに都合これも普通なのかもしれない。そして読んでいて胸が痛くなるのは『火を消せ』かもしれない。「放っておくと、消せなくなる」という副題が付いている。些細なことで争うようになった隣人同士の諍いが、どんどんエスカレートする。そうか、消せなくなるのはこうした憎しみの心なのだ、というふうに読んでいたら、本当に「火を消す」ことができなくなる事件へと展開する。しかし、最後に、信じられないほどの「赦し」に導かれるのは、読む私には「無理」という気がしてくる。しかし、イエス・キリストの赦しというのは、それよりもなお、できないことをなさった、ということであると思い知らされる。
 訳者は「あとがき」で、トルストイについて、子どもたちに必要なことを簡単に語るが、声を出して読んでほしい、という提言をしている。子どもたちに緊張が続くかどうか分からないが、それはとてもよいことのように思われる。と言っても、私にはできないことであるが。




Takapan
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