本

『3.11を心に刻んで』

ホンとの本

『3.11を心に刻んで』
岩波書店編集部編
岩波書店
\1260
2012.3.

 岩波書店のサイトを開くと、ウェブ連載ということで、「3.11を心に刻んで」という項目がある。ことさらに説明はいらないとすべきだろう。ただ、単なる励ましや決意といったものではない。東日本大震災をどう心に刻むのか、刻んでどうするのか、そういった角度から自分に対して問い直す営みを、作家を中心に、岩波書店に著書をもつ人たちが(たぶんそうだろう)綴っている。
 そのサイトには、編集部の言葉としてこのようなことが記されている。「私たちは、2011年3月11日の大震災において被災された方々のことを心に刻み、歩みたいと思います。そして、どのような状況にあっても言葉を恃むことを大切にしたいと願い、ホームページ上での連載をはじめることにしました。毎月さまざまな方に、過去から蓄積されてきた言葉に思いを重ねて書いていただきます。毎月11日の更新です。」
 言葉にはできない状況がある。何を言葉にしても、それは助ける力にならないかもしれないし、傷つけるものでしかないように見えるかもしれない。しかし、書店は言葉を示していかなければならない。いや、書店だからというのでなく、人間が思考するという営みが言葉によるものである限り、言葉を閉ざすことはできない。少なくとも、歩き出すために言葉を欠くことは考えられない。もはや、言葉なしでは、人間は生きていけないとさえ言えるのである。
 その言葉を、ここでは自分へぶつけることを厭わない。生半可に相手にかける言葉は、自分からはもしかすると穏やかであるつもりであるかもしれないが、その言葉をかけられるほうには刃に感じられることもありうるわけで、まずは一度自分へ向けてぶつけてみる。それで安全であると思えたら、もしかするとひとへも投げかけてよいかと望みつつ、表してみる。これを、著すともいうのだが、その言葉をここに集めたということになるのではないかと思う。
 この本は、そのサイトに掲載したものをそのまま集めたものである。いわば、サイトを見た人にとっては、わざわざ本にする必要はないものである。しかも、様々な筆者が短く綴ったものを、内容的な統率なしに並べたものであるとも言えるため、読んでいて流れやまとまりがあるとは思えない。しかし、いろいろな人の誠実な問いかけを次々と受け止めるうちに、読者たる自分は、時に強い共感を示し、時に疑問符を打ちながら読み進むことができる。そして、つねに思わされるのは、自分はどうだろうか、との問いである。
 クリスチャンの方の文章は、抑えられつつも、その背後に聖書や神の思想を感じ、祈る心が伝わってきた。しかし手厳しい指摘もある。たとえば「自然崇拝の伝統があるにもかかわらず、今日の日本ほど生態系破壊の顕著なところは他のどこにもない」(J.パスモア)という言葉を引用した宮田光雄氏の文章が心に残った。原子力への疑問が起こったとき、それを生態系に反しているとか、一神教の生んだものだとかいうふうに非難する声が日本に現にあり、戦争や兵器までも一神教の脅威が持ち出され、すぐに東洋の宗教だとか日本の思想の平和主義を持ち上げようとする意見が出て来ることに対する警告の一つだと私は捉えた。
 恐らく、こうして原子力発電が悪だと攻撃されたことで、火力発電に頼る方針が善一色に塗りつぶされていくのであろうが、そもそも火力発電に問題があるからこそ、原子力発電が拡大していったという点が意図的に消されてしまっていることに、オピニオンリーダーたちは気づかないか、気づかないふりをしている。私たちが産業や、いわゆる経済の拡大を諦めることなしには、原子力の抑制は口にできないのだ。原子力は否定する、しかし電力はもっと必要だ、と言うのでは、見通しの利かない子どものわがままにすぎない。
 百枚千枚の原稿をいくつも連ねたい作家たちが、4〜6枚の原稿で綴った言葉がここに収められている。その行間にこめられた思いを感じようとするアンテナを立てるならば、この一冊の本からは、無限に多くの思索が生み出されるくるのではないか、とも思える。ここには、被災者への安易な慰めや共感などは表れていないように見えるかもしれないが、それがないというのは明らかに間違いだ。味わうことにより、読者はまた、読者自身の心の中から、泉のように何かが湧き出ることを覚えることがあるだろうし、そのことでいっそう、被災者の心を受け止める、あるいは理解する、寄り添う、そういった方向へいくらかでも近づくことができるのではないかと期待する。
 本に触れる機会がなくても、よければネットにおいて、こうした言葉の海にしばらく身を浸してみることは、その人の心の財となりうることだろう。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります