本

『23分間の奇跡』

ホンとの本

『23分間の奇跡』
ジェームズ・クラベル
青島幸男訳
集英社文庫
\480+
1988.7.

 ある教室での、子どもたちと教師とのやりとりを描くだけの短い小説。作者も、あることをきっかけにして、一度に書きおろし、特に推敲などもせずに済んだというほどに、一気に思いがぶつけられた著作。さして長くない。すぐに読める。が、噛みしめて読みたいし、たぶん噛みしめて読むことだろう。
 衝撃的であると言える。
 この内容を明かしてしまうと、いわゆるネタバレ呼ばわりをされるだろう。これは直接お読み戴くのがよい。へたに案内をしてしまうとまずい。
 教室に、新しい教師が来る。そして、子どもたちと話をする。子どもたちがこの教師に馴染んでいく。
 この姿が何を描いているか、それは読者には必ず分かる。分からないとすれば、よほど能天気な人だ。
 しかし、まだ気づくだけよいかもしれない。これが気づかないほど、あるいはまた、気づいてはならないというほどの環境が、世界には多々ある。あるいは、もしかするとすでに気づいているなどと錯覚させられた上で、私たちは実は気づいていないのかもしれない。そういうところにまで、私たちは恐怖を覚えさせられるのである。
 つまりは、私たちの判断力というものが、何に基づいているのか、というところが問題なのである。私たちは、私たちが自分できちんと公平に判断していると信じているし、信じていないと物事を述べることもできない。だが、いわゆる洗脳という状態にある者は、自分で判断していると確信していながら、実のところは操られているということがある。ひどく言えば、教育という営みは、そもそもが洗脳であると言うことさえ可能なほどであるのだ。そのように教育を疑う必要は基本的にないが、事実子どもの教育を率先して操ることが、国家を変えていくことの第一歩だということは、為政者や独裁者には分かっている。どの政権も、強大な権力を欲したとき、必ずそこに目をつけるであろう。
 だから、この、幼い子どもたちを描く教室での23分間の出来事は、そうした事例の象徴であるし、ひとつのモデルとなっている。そこが恐ろしいということなのである。
 何故23分間であるのか、私は知らない。アメリカではその時間に何か意味があるのかもしれない。当時の「カセットテープ」にあった、レコードの46分を収めるに相応しい長さであったり、あるいは30分のテレビ番組の実内容であったりするのか、素人はあれこれ想像するのであるが、一定のひとこまで人がこんなにも変わるということを示すのに適切な時間であったことは間違いない。
 報道に政権が圧力をかけてきている。もちろん、教育の現場に対する圧力はここしばらく続いている。抵抗する教師は非国民扱いする政府や一部新聞社。この「奇跡」は、もはや奇蹟などではなく、現実のものとなろうとしていること、現実にしようとしている権力があるということに、私たちは気づいていると言えるだろうか。それを指摘できるだろうか。
 改めて、この名著が、せめて知られるようでありたいと願う。




Takapan
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