本

『<ひとり死>時代の死生観』

ホンとの本

『<ひとり死>時代の死生観』
小谷みどり
朝日新聞出版
\1600+
2025.4.

 サブタイトルとして「「一人称の死」とどう向き合うか」とも書かれており、自分が自分の死をどのように考え、向き合うのか、という問題に絞ったものであるのかしら、という先入観をもって臨んだ。確かに結末の方ではそうなっていた。しかし、最初からの大部分は、必ずしもそうではなかった。葬式や墓といった社会的な問題から入り、やっと「ひとり死」の話題になった後も、どこか客観視された現象としての「ひとり死」の説明ばかりが続くように見えた。
 それから、「死を考える4つの観点と死のイメージ」という章になり、「生物学的な死」「法律的な死」「文化的な死」そして「社会的な死」というフィールドで死を見つめてゆくようになり、ようやく「死んだらどうなるのか」の話題が出てくる。
 これでようやく「一人称の死」になるのかと思いきや、その準備段階としての「二人称の死」についてかなり詳しく検討されるようになり、最後の四分の一になって、やっと「一人称の死」がテーマになる。
 つまり本書は、サブタイトルを気にしすぎず、タイトルにあった「死生観」について学ぶ本だ、と理解した方がよさそうである。
 すでに著者は、新書などの形式で、同様の内容を世に提示しているようであるから、「死生学」について一般的な紹介を淀みなく行った後、本書では特に自分の死というものについて見つめる方向へと舵を切るような構想を考えていたのではないか、と推測する。
 死生学。それは、学者の感想や思い込みではない。まず、意識調査を含め、様々なデータが多用される。
 たとえば、「死に場所の変化」のデータがあるが、昔と違って「病院」が格段に増えている――そのように、私たちは捉えていたかもしれないる確かに、1055年では病院で亡くなる人が8人に1人という割合であったのが、2005年では8割の人がそうなっている。しかし、その後減り続け、新しい2022年の調査では、3人に2人を切っている。その代わりその間に造花したのが、老人ホームである。1995年には1.5%だったのが、2022年では11.0%に増えている。確かに、考えてみれば、これは納得のいくことだが、突きつけられなければ、これほどとは分からなかったであろう。このことは、著者は強調していないが、私がデータから教えられたことである。
 死もそうであるが、出産も、病院という場に頼るようになっている。すると気づかされるのが、葬儀も、地域で協力して葬式を出すというのが当たり前だった時代はとうに去り、業者にすべて任せるというタイプになってきている。それがさらにいまは、家族葬というスタイルで、周りの人々にも気づかれないままに人がいなくなっている、という事態にまで変わってきている。これは、葬儀の業者にとっても、ビジネスのスタイルが変化してくる結果をもたらすことになる。
 著者は様々な角度から、死について事実を提示してゆく。いまや「家族」や「先祖」という形が薄れてゆく中で、「無縁遺骨」が増加していることや、それに伴う社会の形も明らかにしてゆく。そうした中で、「ひとり死」という概念の意味が定まってゆくのである。
 もちろん、ドラマのように、家族に囲まれて息を引き取るなどというものが殆どないようなことも指摘はするが、先般「ひとりでしにたい」というドラマの発端となっていたように、死後しばらくの間気づかれないで放置されたママの「孤立死」すら、珍しいものではなくなってきているのである。
 配偶者がいる場合に、自分が先に死にたいという意識は男性が強いとか、平均寿命の数値に拘わらず、男性の長寿化が起こっている中で、男性の方が残されるというような事態の増加など、容赦なく現実が突きつけられてゆくのは、読むだけでドキドキしてしまう。
 実は繰り返されているが、著者自身、夫を突然死で失っている。そのときの体験が、自身の死生観に影響を与えてもいるだろうし、「二人称の死」としてどう受け止めて体験してゆくのかということも、経験している。そして、自ら宗教的な意識がないことや、死後の世界に期待することはないという前提によって、最後には、いまを生きることを真摯に営むという幸福感を打ち出している。もちろん、それは来世を望む人を悪く言うということではなく、あくまで著者個人の問題としてである。
 私が特に関心を示したのは、p128からの、日本人の宗教心についてである。
 宗教を信仰している、という表明をあまりしない日本人だが、見えないものを否定しているわけではないため、著者はそれを「宗教的な心」と呼ぶことにしているという。罰が当たるとかお天道様が見ているとか、日本人が多く共有している感性が、日本社会の秩序が保たれてきたのであろうと推測している。そのとき、「気」という概念に注目し、見えない何かを「気」と表現して何か分かったような気持ちになっている点を指摘している。だから、大切な人が見守ってくれている「気」がするなど、本人の心のあり方の問題だということになり、それは誰にも明確な答えが示せないものであるにも関わらず、各人が思っていることで、それはそれでよいのだ、としている。
 そうした「宗教的な心」をもつからこそ、日本人が特定の信仰をもたなくてもいろいろな宗教施設に関わり、死者を重んじる共通理解をもつなど、見えないものを否定しないでいることも説明できるのだ、としている。
 また、テレビドラマ「JIN―仁―完結編」で、第一コリントの言葉を基にした、「神は乗り越えられる試練しか与えない」という有名なセリフがあることを挙げて、夫と死別した直後の自分がとても励まされた、ということを告白している。ちゃんとパウロの言葉が引用されていたのが印象的であった。
 著者は、「没イチの会」というものを立ち上げ、配偶者を失った人々と共に語り合う場を設けており、その方面の本も著している。また機会があれば覗いてみたい。
 概して、自分の死そのものに対する恐怖というものが、本書からは感じられない。そう考える人のデータも公平に紹介してはいるものの、著者自身がそう考えていないことによって、本全体の与える印象が、深刻なものではなくなっているように見受けられた。また、そのことで宗教的な方面へと思想が進まず、自身の体験がショッキングであったにも関わらず、比較的ドライな文面で最後まで綴った本となっているような気がする。だからこそ、多くの人が、自分はどう考えるか、という点へ誘われてもいるのであり、本書の積極的な意義が生まれることになったのではないか、と考えられる。
 それにしても、「家族」というものがない中で死を迎えるケースがとみに増えている昨今において、「家族がいなくても死ねる」という形での「死の社会化」が、いっそう必要を増してくるという点についても、著者は具体的にいまどのような制度になっているか、語っている。すでに、「家族がいることが当たり前」ではなくなってきているのである。私たちは、死後についても各自がそれぞれに考えることができると著者は言うが、「宗教的な心」が、こうした現実に着いても「意識」を変えてゆくことが、いっそう必要になってくるのだろう。
 難しい洋書や海外の研究を殆ど持ち出さず、専ら日本人の現実と向き合った本書は、実に様々な角度から、様々な問題について触れている、コンパクトでありながら、たいへん有意義な一冊となっているものだ、と私は評価したい。




Takapan
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