本

『一神教の誕生』

ホンとの本

『一神教の誕生』
加藤隆
講談社現代新書1609
\777
2002.5

 ユダヤ教からキリスト教へ。サブタイトルとして、そのように書いてある。
 時は2002年。だが、それは2001年9月のあの事件を契機として始まった。ニューヨークの世界貿易センタービルに突入した旅客機。そのとき、一神教への疑問が、日本の一部のマスコミでまた湧き起こった。こうした機会をとらえては、一神教は危険だとか好戦的だとか、騒ぎ立てる輩が必ずいるものである。
 これが著者の動機の一つになっているのではないかと思われる。その追悼の日の演説の中にあった、「信頼」という言葉がまえがきで大きく取り上げられている。
 ともかく、大きなテーマとなっているのが、人間が神を作り、神を人間の指示するように従える構図をどうやって乗り越えていくのか、という点である。これが、一神教というまさに神が主体の構造を問う重大な基本的問いである。私たちは、神に願をかけるようでありながら、その実人間である自分の命令を神に聞かせようとしていることがしばしばある。しかしそれは克服されていかなければならなかった、と著者は考える。その延長上に、こうした一神教の成立があるのである。
 それにしても、ねちねちと論理的に議論を組み立てていく著者の傾向である。読者も、だんだん嫌気がさしていくかもしれない。分かり切ったようなことも、丁寧に辿っていく。そのある意味で説得力のある手法によって、乗せられたときにはスムーズに読めるが、ひとたびひっかかると、どうなるか知れない。神殿主義と律法主義にユダヤ教を単純化し、その構図からキリスト教の成立を解き明かそうとする。はたして単純な図解で説明できることなのかと思う一方、単純化した図は読者の理解を非常に助けるものであることも実感した。
 そのキリスト教は、イエス自身の思惑とは違い、弟子たちは、決定的にイエスとは異なるものを作り上げていくことになった、と著者は言う。それは、教会である。教会なるものへの、徹底した批判があるにしても、こうまで回りくどく、しかも聖書そのものを取り扱う中で、教会を批判していくことは、珍しい。教会がどう成立していったかと示すことなしに、一神教の正当なる誕生はない。さらに、その後の教会史をたどるようにして、近代から現代に、どのように教会が伝えられ、聖書がもたらされているのか、これも説明しようとする。
 図による単純な構造の理解がなされていくのも、特徴的である。読者は、言葉だけで書いてあるよりも、パワーポイント的なその簡単な図示が、理解をたしかにしていくことに気づく。
 はたして、このような構図ですべてがクリアになったかどうかは、読者が判断すべきことかと思う。はたして人が宗教に近づくときに、この本にあるように、論理的に思考して信の態度を決しているのかどうか、それは私には分からない。単純な図示は、時折共通理解を失わせることがある。
 人間の行為次第で神の報いが定まるとすれば、これは人間がオートマチックな神を利用していることになる。神は人間の態度如何に関わらず、恵みを施すときには施すし、罰を与えるときには罰を与えるべきものである。著者がひとつの原理として掲げてそれを基に解説を施すときには、この神をすら奴隷にしている人間のあり方を反省させられる思いがした。
 うざいほどの論旨となるが、理路整然と説明してみる、というのも、どこかで必要な方策であるのかもしれない。それが著者の特徴である。いろいろ欠陥もあるかもしれないが、その研究は読者としての私たちにも、大いに参考になることだろう。




Takapan
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