本

『初代教会と現代』

ホンとの本

『初代教会と現代』
湊晶子
ヨベル
\3500+
2018.10.

 偶然書店で見かけた出会いだった。いまどき、500頁を超えてこの価格は安い、とまず見かけで思った。YOBELという発行社は、比較的そのような価格設定をしている。キリスト教関係の書店ではあるが、少し斜に構えたような視点を提供する本が多い。
 その意味で、本書の題は正攻法を目指すように見えたが、やはり中身はそれとは違う印象を与えた。これは基本的に、女性論の本である。もちろん、初代教会の研究についても多くの頁が割かれている。しかし、読後の感想としては、女性に関する主張が強く残る。帯にはそう読み取れるような書き方もあるのだが、私はその女性とキリスト教会についての点を、もっと前面に立てて世に送ってよかったのではないか、と個人的には思う。
 そして、著者に敬服する。これだけ堂々と、背景を指摘して、教会に於ける女性の立場や地位について、真っ直ぐな考えを訴えているのだ。どうしてこれがもっともっと大きな声となって、キリスト教会に響かないのだろう。
 帯に在るように、これは「論文集」である。本とての著作ではない。各方面で綴られた論文を集めたものである。著者に特有なのかもしれないが、多くの場面で繰り返し書かれることがある。日本の女子に関する大学教育への貢献者については、何度も何度も触れられる。それだけ、読む者には繰り返し刻み込まれることになる。私はその効果で、本書の訴えに心が揺さぶられたということなのかもしれない。
 特に新渡戸稲造については、自ら学んだ東京女子大学の初代学長でもあることから、造詣が深いというばかりでなく、新渡戸の掲げた理想を受け継ごうと努めているように見える。そして論文執筆当時の話題でもあるのだろうが、教育基本法の改正について、大きく異を唱えている。太平洋戦争を体験しているだけに、その時代について知るという意味でも、その主張には耳を傾けて然るべきであるだろう。
 収められている論文は、大きく位置づけると、「ローマ帝国とキリスト教」、「キリスト教人格論と日本の教育」、そして「女生と社会」に分けてよいだろう。
 とくにミトラ教とローマ帝国の関係についての指摘は心に残る。また、国家権力とキリスト教との関係についても、いまの時代に直接関わるものとして読むべき価値があるだろうと思う。その皇帝礼拝についての指摘は、天皇の問題にもつながるであろうし、「皇帝礼拝」と「皇帝崇拝」との違いを明確にするということは、目を開かされる思いがする。権力側が強要する背景を有する「皇帝礼拝」に対して、「昭和天皇が重体に陥ったときの自粛騒動に見られるように、何も権力におどらされて民衆が従ったのではなく、まさにみずから進んでいった"自粛"だったところに、ローマの皇帝崇拝に通ずるものを見出すのである」と記している。
 また、ローマにおける「自由人」と「奴隷」との違いについても、ぼんやりイメージする私たちの概念に警鐘を鳴らすものとして傾聴に値する。これについて「註解書はほとんどない」とさえ言っている。そして、「ローマ市民権所有者」と「自由人」というものがまるで違うということを指摘する。法的にもそれぞれどのようなことができたのか、明確に述べているので、聖書を読む上でも、そして聖書から説教をするような立場の人ならば特に、心得ていなければならないことだろう。それは、「奴隷」についても同様で在る。紀元前二世紀の後半期からの頃には、人口の約三分の一が奴隷で占められていたともいう。それが、新約聖書の帝政期には、奴隷の扱いがずいぶんと変化しているという。むしろ自由人として見なされ、ただ保護者権によって拘束された立場であるようなケースが目立つというが、これはまるで現代の私たちの姿であるようには思えてこないだろうか。時折、パウロが奴隷制を認めているのはけしからん、というような短絡的な声を聞くが、大いに考慮すべきであろう。ピレモン(フィレモン)書でパウロが「自筆である」ことを書いているが、それがこれが公文書としての通知であることを示す重要な表現であることにも、教えられるものであった。
 このように、本書から学べることを挙げると、際限がない。次の人格論は、もちろん新渡戸稲造を軸に書かれたものであるが、「人格のないところには責任は生じない」とする新渡戸の考えを基盤として、特に女子の大学教育や、戦争と平和あるいは権力の問題を縦横に指摘することが繰り返されているように見える。そこには、森有正の思想も織り込んであり、読み応えがある。そして、日本のキリスト教学校についての誇りと危機感とが正面から論じられてもいるわけで、そこに「人格」という概念を掲げてゆくことは、もっと広く考えられて然るべきだろうと考える。
 女性については、ルターの妻カタリーナ・フォン・ボラと、ジョン・ウェスレーの母スザンナについて、詳しく取り上げている。この二人について、これほど詳しく説かれたものを、私は見たことがない。
 しかし他方、プリスカに限らず聖書の時代に大活躍していた女性たちの生き生きとしていた時代から、教会組織が固まってゆく中ですっかり男性中心の教会や社会となり、女性がどんどん追い込まれていった歴史をも明確に示す。それが近代になり、先のボラやスザンナというような女性が活気をもたらし、日本では新渡戸の許から津田梅子、安井てつ、河井道といった面々が女子教育に貢献したことを挙げ、日本のフェミニズムについては、平塚らいてうや市川房枝ですら、結局国家宗教の中に埋没し妥協していったことを指摘する。だから、宗教を知るキリスト教会に於いて、女性と教育の問題について、担う責任があるのだ、とするのである。「歴史的に聖書を文化の中に持たない日本で、西欧的価値観をも理解して討論出来るのは、教会においてではないでしょうか」と問いかける声を、日本の教会はどう受け止めるべきであろうか。馬耳東風でよいのだろうか。
 最後に置かれた、「「キリスト教女子人格教育」の現代的使命」が、本書の向かうべき焦点へと読者を導く。それは、本書執筆時点で86歳であった著者の、使命感に燃えた叫びでもあるのだろう。問題は、日本のキリスト教会がそれを聞く耳を有っているかどうか、というところである。




Takapan
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