本

『1Q84』

ホンとの本

『1Q84』
村上春樹
新潮文庫
\550-630+
2012.4-6.

 単行本で昔途中まで読んでいた。この度、中古文庫安売りセールに出会い、文庫版で全部購入して読んだ。BOOK1-3が、それぞれ前編後編に分かれている。全六巻である。
 もちろんオーウェルの『1984』をオマージュした作品である。これは、架空の世界で共産主義やファシズムの問題を暴露するような形の作品だったはずだが、村上春樹は本作で、文学業界に触れると共に、やはり宗教団体の考え方や組織的問題をベースに、現実とほんの少し隣り合っている、架空の世界を描いているように見える。
 本書は2009年から翌年にかけて、三冊に分けて出版されている。その10年余り前に、村上は『アンダーグラウンド』を上梓している。これは、1995年の地下鉄サリン事件の被害者を、時間をかけて丁寧に取材したものである。村上春樹のフィクションではない。これにより、事件の内実を、つまり報道や評論などで外から眺められた姿ではなく、現場を知る当事者の視線と体験とを、言語化しようとしている。対して、信者サイドへのインタビューを以てまとめられたのが、『約束された場所で』という本となっているが、現在私はこちらを読んでいないので、近い将来読みたいと思っている。
 そのため、『1Q84』もまた、宗教団体の組織に関わるミステリーを描いていることになるが、それを断罪しようとしているものでもないように思う。そして、オウム真理教の事件の被害者を考慮してなのか、それともオウム真理教に限らず宗教団体にはいろいろな問題があることに触れたいと考えてなのか分からないが、本作では、オウム真理教を思わせる要素は、その暴力的な面のほかには直接はないように感じられる。登場する宗教団体のモデルは、「エホバの証人」と「幸福会ヤマギシ会」であろう。後者は、自らが宗教団体ではないと公言しているようであるが、宗教的な関係や思想がそこに見られることについては、多くの人が認めているところであると言えるだろう。
 小説なので、粗筋を紹介するつもりはないし、また、ここから村上文学について批評しようなどと考えているわけではない。本作の謎を説き明かそうとしているはずもなく、それだけの知識も熱意も持ち合わせていない。ただ、本と出会うことについて幾らか語りたいだけである。
 天吾と青豆という、小学生のときにささやかな、あるいはほんの一瞬の出来事で結びついた心が、20年後に出会い直すという物語ではあるだろう。章毎に、二人の視線から語られる物語が並んでゆくという構成は、他にもあるのだが、本書には途中から、牛河という男がその章に姿を現す。
 登場人物はさほど多くないのだが、章にはならずとも重要な役割を果たす存在が幾人かいる。なかでも「ふかえり」と称する少女は特筆すべきであろう。宗教団体と天吾との間に入り、そのためまた青豆とも関わりをもつように設定されている。が、なによりその少女の余りにも並のその世代の女の子たちとの違いが際立つ。
 例によって、神秘的な出来事が多々あるわけで、それらの現実性を議論することはよくない。二つ現れた月という景色が、二人を、1984年ではなく、1Q84年にいると気づかせることになる。「空気さなぎ」という、謎の小説と、そこに登場する「リトルピープル」という謎の存在については、それが何者であるのかが明かされないままに物語は終わるし、途中で退出した「ふかえり」も、さてそこからどうしたのか、彼女は何だったのか、それは天吾の想像の中で説明される程度である。
 宗教団体の成立に関わるが、「パシヴァとレシヴァ」も謎めいていて、私たち人間が「声を聴く」ということについてイメージさせるものがあるように見える。「マザとドウタ」も、英語から意味は明確だが、単に娘であるというふうには描かれていない。
 他方、随所で、文学や映画がふんだんに盛り込まれているのも村上らしい。なにげない会話の中に、高い文学的教養があちこち現れているのだが、それぞれが、物語の何かを象徴しようとしていたり、台詞にない何かを伝えようとしたりしていることがよく分かる。但し、村上春樹にしては、今回は音楽的な蘊蓄めいた描写が少ないように感じた。否、そんなことはないのだが、クラシック曲が多かったために、そのような印象を与えていたのかもしれない。ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」だけは、冒頭部分から何度か登場しているから、それだけは横で鳴らしながら私も本に向かっていた。
 いつもながら、村上作品は、行動描写が細かい。一見どうでもいい、無駄な行動が一つひとつ記されている。そのために物語が長くなるのは否めないが、私はそれが好きである。ただ言葉がとんとん拍子で進んでいくとき、ひとは何もせず突っ立っているわけではないだろう。ちょっとした行動も、台詞と同じくらい大切な場面のキャラクターである。読む者としては、その場面が目に浮かんでくることになり、私は逆に、台詞が一つひとつ鮮明に迫ってくる。会話がただ流れてゆくだけだと、すうっと流れて消えてゆくことになるのが、私の悪いところである。冗長とも思えるような描写が、私を作品の舞台に引き入れてくれるのは確かである。だから何もかもが頭に入ってゆく。不思議だが、理性で解することができない場合でも、私はこれらの文章の描く世界を、自然に受け容れてしまうのだ。
 宗教団体については、モデルになったものの他にも、よくよく検討考慮すべきものがある。もしも本作品に触れていたら、その宗教団体に騙されたり、被害を受けたりしなくて済んだような人が、きっとたくさんいただろうと思う。信仰自体を危ないなどと言っているのではない。組織の問題に気づくかどうか、が重要なのである。キリスト教関係も、その例外ではない。




Takapan
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