本

『はじめて読む聖書』

ホンとの本

『はじめて読む聖書』
田川建三ほか
新潮新書582
\720+
2014.8.

 季刊誌「考える人」という本を、2010年初めて耳にした。近くの書店では見たことがなかった。田川建三の個人的なインタビューが載っているということだった。少しして大きな書店でその本のある場所を探したが、もう見つからなかった。読みたいと思ったが、ついに出会う機会がなかった。
 このたび、ネットで本を買うのが普通のような生活になってきて、情報も当時よりはずいぶん早く、また漏らさず入ってくるようになってきて、この「考える人」の特集部分が読めるということが分かった。新書に収まる程度の量だったのだ、という言い方が、意外と少ないと思えるか、案外多いと思えるのか、それは思い当たる方それぞれの感想となるだろう。私にとっては、多いという気がした。
 この新潮新書が、それである。少し時期が空きすぎたのではないか、とも思えるが、私のように、読み損ねてこうした機会が現れるのを待っていた読者も、確かにいるかもしれない。
 季刊誌の存在を初めて知ったのは、田川建三自身のちょっとした呟きのような言葉からだった。だが、彼のみの記事がそこにあったわけではない。この新書においては、田川氏のインタビューがウリではあるのだが、山形孝夫・山我哲雄などの学者のほか、キリスト教についてそれなりに造詣が深く、著書もあるような、池澤夏樹や橋本治のような人も寄稿している。吉本隆明の名も見るならば、やはり重い内容だと捉える人もいることだろう。
 どれも、聖書を中心に取り巻いて自分の心にあるものを紡ぎ出しているような文章である。淡々と聖書の内容入門のように説明している場合もあるが、素朴な思いのようなものが吐露してある、と受け取って差し支えないものばかりである。
 その意味で、これらは決して軽々しい思いつきで語られているのではないことが分かる。人生を賭けてきた、世界観全体のようなものを背景にして、聖書というものについて全身でぶつかっているような態度なのである。読者もまた、真摯に聖書に向かい合わなければならない。いや、聖書に向かい合わされることであろう。
 だがともかく、他ではめったに語られない、田川建三自身の生い立ちや大学生活、海外生活の実情というものが、実にいきいきとしていて面白い。全体の三分の一を占めるその部分は、ふだんの皮肉めいたような態度とはまた違い、自分の人生を正直に語る一人の男の精神史を見せてもらえる、貴重なものであったと言えそうだ。
 今ここでそれを明らかにすることはできないが、その章のタイトルが「神を信じないクリスチャン」とある点を挙げておこう。実に逆説的なタイトルである。おや、と思わせて、中を読むことにより、なるほどそういう意味か、と納得させるような手法であるが、こういう場合、「神」という言葉の意味が、通常の私たちのイメージとは違う場合が多い。「神」という、ともすれば既知の概念のようなものが、深く考え直してみれば、あるいは定義次第によっては、全く違うものとして認識される場合があるのである。あるいは、私たちが買ってに、自分でこのようなものだ、と思い込んでいることもある。そのような曖昧な言葉の意味を検討して、一定の定義のもとに理解し直すならば、こういうタイトルは、適切な意味をもつものとして響いてくることになるのである。
 そうなると、本書の「はじめて読む聖書」も、その「考える人」の特集名のままではあるのだが、何かしら特殊な定義の下に、意図的なものを含んだ意味を有するもみとして理解できよう。実のところ、そのことは、前書きのような部分でまず告げられている。だが、内容を知らずして読む前書きは、その言葉の小さな響きや意図などを適切に理解した上で読むことができるものではない。そこでお薦めは、最初にここを見てよいのだが、全体を読み終わった後に、改めて最初の前書きのような本の初めのその説明を見るということである。「考える人」の当時編集長だった人物は、この企画の主であり、どういうふうにして記事を集め、雑誌を作り出したか、すべてを知り、操る者である。その人が書いた前書きのような部分は、この本全体の要旨のようにもなっている。そういう味わい方をしてよいのではないだろうか。
 聖書をどう読んだらよいか。初めて聖書に触れるときに、どういう姿勢があるとよいのか。あるいは、どういう経験をしていくことになるのか。信仰のための、信仰を目的とした読み方ではないかもしれない。だが、いったい聖書とは何であるのか、無視して通りすぎることのできないこの現代社会の中で、信仰という形であるかどうかはともかくとして、まずは聖書のフィールドに出くわして、何かしらの観光でもよいし、何か心にひっかかるような経験をしていくことは、その人にとり大きな意味をもつことであろう。世界がまた違って見える経験をしていくことになるであろう。
 聖書は、信じるか信じないかということとはまた別に、そうした世界観に対する大きな影響を及ぼす力をもっている。また、その価値がある。少し硬い内容のようではあるにしても、真摯に聖書と向き合いたいという人、しかしまた、素朴に信仰をするというだけでなく、聖書を多角的に知ることをよしとする考えが心に入る余裕がある人ならば、十分楽しめる本であることは間違いない。つまり、私は大変刺激を受けた。小さな本だが、刺激的な一冊であったと言えよう。




Takapan
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