本

『1973年のピンボール』

ホンとの本

『1973年のピンボール』
村上春樹
講談社
\850
1980.6.

 ずいぶんと古い版で読んだものだ。そして初めて味わったということがまた驚異的であるかもしれない。小説を知らない私だが、息子が文藝評論の課題で選んだことから、ついに手を出すこととなった。京都へ向かう車の中で、この話のあちこちを引用して、運転しながら返す私の感想を求めてきたのである。
 断片的に印象的なシーンばかりを聞かされていたので、今回手に取ったときには大変読みやすかったが、まるで映画の予告編ばかり幾度も見ておいて、本当にその映画を見たときに、予告編のあのシーンだ、とあてはまるような意味合いがあったかもしれないと思った。ただ、時系列で読むと、また少し違った印象を受けたのは確かである。1973年という時代に引きつけて捉えるような見方を、運転中の私はイメージしたが、作品に接すると、その意識は薄れた。無関係とは言えないが、そこに重ねて読むことは相応しくない。物語には、鼠にしてもそうだが、過去と未来の死がつきまとい、過去に縛られている僕がその呪縛から解放されていく動きをどうしても感じざるをえなかったのだ。それは、わずかにしか登場しないが、決定的な出来事として存在感をもつ、直子とその死である。
 先ほど時系列で読むと言ったが、実のところこの小説には時系列がない。あるのはただ象徴的なシーンの繰り返しである。僕の出来事はとくに幻想的ですらあり、おそらく事実であろう直子の死とそれを過去として背負う自分の苦悩に堪えきれずに、幻想の中でその自分の過去と向き合い、何らかの形で克服していく過程が様々な形で切り漏れてくるかのように感じた。それに対して、鼠は出口がない。鼠は未来へ踏み出せない。逃げようとはするが、恐らくは逃げられないのだろう。それに対して僕は、双子の女の子の助けもあり、直子への葬送をもできたのではないかという気がする。
 その時に、村上春樹らしく、風俗を音楽で飾っていくというのは味わうためにぜひ背景に流したい音であろうし、そこに何らかのメッセージか雰囲気作りがこめられていることは確かなのだろうが、私はそちらはよく分からない。ただ、双子が買ってきたビートルズの「ラバー・ソウル」は、物語の中のアクセントとして非常に印象的なだけに、気になった。元々こうした外国の曲を取り入れて何らかの役割をもたせるというのは、村上春樹の特色でもあるだけに、この中で登場する「ラバー・ソウル」は気になった。それでそのアルバムに含まれている名曲の数々をひとまとめに訳しているサイトがないかと探してみたらすぐに見つかったので、見てみると、その中に、失ったひとを思うものと、鼠のことを言っているのかと思われるような歌詞があり、決めつけはしないが、底流にある大切な感情を提供しているのであろうと感じた。
 音楽ではないがその文化的背景として、私がひしひしと感じるのは、僕がカントを読んでいるということだ。これはかなり強く描かれており、『純粋理性批判』というヒントと、配電盤の葬儀に関するところで、哲学が理性の幻想を取り去る義務を負っている点に唯一思想として触れているあたりは、よほどの考えがあって取り入れているに違いないと感じた。もちろんこれは、適切な直観から悟性概念へと適用されて学的な認識を形成することを外れて、理性のみが推論だけから暴走していくことに対する警告でもあるのだが、僕が直子とのことで傷つき、あるいは傷つけて、過去の華やかさがそうでなくなったことから始まる理性の暴走を止める儀式となったはずである。
 犬と猫が幾度か物語を横断し、それもまた彼女との思い出と現在とを往復するためのメタファーになっているのだろうが、やはりタイトルのピンボールが問題である。なんとなくピンボールを登場させたいから描いた、という作者の声もあるようだが、もしそうだとしても、ピンボールのもつ豊かな人生遍歴や出来事、また挫折やら再生やらの動きをもたらす僕の心理の変遷を感じさせないではおれないと言ってよいだろう。さらに言えば、ピンボールとの出会いは、恐らくは直子の死の時、あるいはその後である。だからこのピンボールと僕とは印象的な場面で二度さかんに対話をするのであるが、恐らくは直子との対話として成立していることは間違いないだろう。直子にとり僕が最高の存在であったのだということと、いまから再び二人で未来をつくるゲームを始めることを僕が拒んで、振り返らず歩いて去るあたりで、僕はようやく過去から、この年号の付けられた世界から、救われていくのではないかと思わないではいられないのだ。その願望は、そのピンボールが姿を消す前にも、僕の内部における声であるだけだったかもしれないが、「あなたのせいじゃない」とピンボールまたは直子に言わせている。人間は限られたことしかできない、だからあれは僕のせいではなかったのだと直子に慰められるし、そもそもこのテーゼはカントの『純粋理性批判』の主軸そのものである。但し、カントの意図は、人間の理論理性を制限することによって、むしろ実践理性の世界を拓き、理論理性とは別の活動領域を確保するところにあった。僕はそこに救いを見出そうとしているかのようにも見える。
 その世界へ移行する備えができたならば、双子の女の子はもう必要がなくなる。この世では東西対立があり、政府と学生との対立もあった。二項対立のジレンマはカントの課題であった理性の問いを彷彿とさせる。双子の女の子は、これら二項の間の一見の矛盾が、実は同じところに、あるいはヘーゲル的かもしれないが、止揚されたところで解決されていくこと、つまり右があれば左があり、入口があれば出口があることを確証するための助けであったことだろうが、僕は二人と別れを告げる。もとのところに帰るという双子だが、僕はこの出来事を、通りすぎる日として五感の限りを尽くして体験してひとつの幕が閉じられるのである。
 文藝には謎解きはいらない。作者には作者の論理があり、あるいは気分もある。心に懐くモチーフやイメージを、作者の中に生じた必然に応じて、時間の中で綴られる文章によって形に表されていくしかないもどかしさをもつものが文学である。それを読者が謎として解読することを目的とすることはよくない。また、解読できたと浮かれる必要もないし、解読できないと嘆く必要もない。だが、他の作品を介してでなく、つまり三部作と呼ばれる一連の作品を参考にすることもなく、本作だけを味わったときにですら、私は自分にとっての直子を思い起こし、配電盤の在処を教えてもらい、双子の存在を確認し、自分がピンボールと出会って別れる経緯を噛みしめたならば、作品が一人の人間の中で生きたものとなったと言えるのではないだろうか。遠くから見れば美しい、だが若いころどうしてあんなものに夢中になっていたか知れないようなものを、年齢を経たままに私は覚えるし、もがいていたあの頃の悩みは、古いながらも暖かな光として、たださまようものとしてではなく、これからも寄り添っていて構わないものとして、どこまでもそこにあるべきものであり続けることだろう。
 少なくとも、これだけのことをいろいろ考えさせてくれたことだけでも、ひとつの文学は尊く、輝いていると言えるだろう。これは、論理一辺倒の日本語の教育によっては絶対に育めない性質のものである。文学は、人生に必要なものなのである。




Takapan
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