本

『17歳のこころ その闇と病理』

ホンとの本

『17歳のこころ その闇と病理』
片田珠美
NHKBOOKS
\970
2003.7

 2000年。17歳の手による凶悪犯罪が続いた。凶悪と言いながら、どれもおとなしい、そしてしばしば成績優秀な生徒による、実に不可解な殺人だった。
 豊川主婦殺害事件(人を殺してみたかった)。……5月1日
 佐賀バスジャック事件。……5月3日
 これらは日本中を震撼させた。
 岡山の母親殺害(野球部員をバットで殴った後自宅で母を撲殺)。……6月21日
 新宿ビデオ店爆破。……12月4日
 これらも、17歳の手によるものだった。また、山口の16歳少年による母殺し(7月29日)と、大分の15歳少年による一家六人殺傷事件(8月14日)もあった。
 そして、酒鬼薔薇を名のった少年による猟奇殺人もまた、この歳17歳になっていた。彼は間もなく医療少年院を出てくることになっている。
 この世代の一致は何か特別なことなのか。それとも単なる偶然なのか。
 今また私たちは、長崎の四歳児殺害事件で中学生ながら12歳の少年の手による犯行を今年(2003年)目の前にした。世代はまた一つ若くなったのだろうか。
 精神分析と精神病理学を道具として、これらの少年一人一人に迫ろうとするのが、この書の意義である。あいにく、少年事件は、その詳細を公開されない。あくまでも新聞記事や各種報道を素材として分析していかなければならない点で、いかにプロとはいえ、外部の観察者の不利さがある。また、読者としての私たちも、これは表に報道された内容からの類推に留まることを了解した上で読み進まなければならない。
 必要なことは、犯した少年たちの吊し上げではない。彼らを生んだ社会とは何か、私たち自身に問題があるのか、といった検討である。著者は、犯罪の動機や心理を解明しようとすることをモットーとしているが、当然そこには、社会がこうした犯罪をなくしていくための課題を考えたいという目的が含まれている。
 もしかすると、私たち自身の中にも、彼らと同じ心があるのだろうし、私の場合はあると断言してもよい。そして私たち自身が、彼らを追いつめる立場にあったかもしれないことを、もっと重大に考えてよいと思っている。
 昔は、きっとこうした事件がもっとあったのだろう。少年事件は、数そのものはむしろ減っているという捉え方もある。だが、今では個人的責任として処理できない雰囲気をもち始めている。いや、その前に個人というものが何かおかしな立ち上がり方をしているように見えてならないのだ。それは大人も同じこと。大人のあり方が、こうした犯罪を作ったと省みる気持ちがすべての人に少しでもあったら、何らかの解決への道は険しくないのかもしれない、とさえ思う。
 岡山で、日頃自分のことをいじめていた下級生をバットで殴り、自宅へ戻った後、このことで母親を苦しませてはいけないと母親を殴り殺し、自転車に乗って東へ北へと逃亡したあの少年の事件にしても、いじめという問題を無視して考察することはできない。彼が逃亡して立ち寄った場所は、ひさぱんの実家のすぐ傍であったこともショックだったが、殴られた下級生の野球部員たちは、少年の父親から当然のことながら多くの賠償金を受け取っている。それはそれでよいのだろうが、私はどこか釈然としないものを覚える。さんざんいじめていた者に対して、いじめられていた者がついに爆発したとき、それはケガをさせた故に、いじめられていた者の側が全面的に賠償をしなければならない、悪者でなければならない、という図式についてだ。被害はあるにしても、いじめる側が圧倒的に有利ではないか。いじめる者が、正義の側に立つことになる。それでいいのだろうか。
 なお、個人的には、本のタイトルである17歳という数字そのものに、こだわりは持つべきではないと思う。私たちは、その3年ほど年長のグループを松坂世代と呼んで面白がっている。しかしそこに必然性はない。何歳であれ、二十歳を前にしたような人間に、いろいろな問題が付随していることをここで知ればよいのだ。いや、引きこもりなどでも、二十年前にだっていくらでもあったのだから、さしてセンセーショナルに奇異だと語る意見に惑わされず、比較的若い世代に特徴的な思考法や生活環境などを通じて、本来人間の中に潜んでいるはずの怖い部分を、読者は自分自身の中に問うてみるがいい。戦慄するだろう。それに気づかないならば、鈍感すぎるか、あるいは盲目であるかだ。自分の罪に対して。




Takapan
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