本

『自分の頭で考えたい人のための15分間哲学教室』

ホンとの本

『自分の頭で考えたい人のための15分間哲学教室』
アン・ルーニー
田口未和訳
文響社
\1680+
2018.3.

 思い込みなのかもしれないけれど、邦題はなんだかハウツーっぽく聞こえて仕方がない。現代は最後の「15分間の哲学者」という部分だけである。哲学というものが生活の中に、それなりに根付いている文化と、それのない文化との違いであると言われればそれまでだが、根付いてほしい私としては、こうしたことを思うたびにいつも落胆する。だが、本書はその壁を破る力をもっていると感じる。格段に面白いのである。
 哲学は大学などにわざわざ学びに行くものではない、と本書は最初に告げる。「経験し、考えることが哲学だ」と言っている。この冒頭の言葉そのままに、最後まで突っ走るのだから大したものだ。それも、15分ずつの思索が積み重なってのことだから、タイトルにも根拠があると言える。
 それなりに哲学なるものが流行しているのは、世界との関係の中でビジネスも学問も成立するようになった時代、哲学を抜きにしているわけにはゆかないと感じたせいかもしれない。しかし学校で悲しいくらい、哲学というものを学ばない日本という国の教育制度しか知らない故に、哲学入門というのは、まず少しでも読んでみたい本だと言えるのだろう。その時、ありがちな哲学入門は、古代から哲学者を取り上げ、その人がどういう思想をもっていたか、その哲学を象徴する用語の解説を始める、といった具合である。確かに、哲学史についての一定の教養は身につくかもしれない。だが、それは「考えること」であるとは言い難い。しばしば必要なのは「哲学する」ことであって、「哲学知識」ではない、と言われるが、まさに「哲学する」には、古代からの思想の羅列であるわけにはゆかないだろう、というのが妥当な意見だ。確かに人類の歴史における、思想の変化や発展は大切だ。その繋がりがあるから、誰のどんな思想に反目してこの思想が生まれたか、といった関係が適切に理解できるというものだ。
 しかし、である。本書が面白いのは、私たちが生活の中で出会う問題、何かしら考えなければならない事態に遭遇したときに、どう考える道があるのだろうか、いろいろな可能性を導いてくれることである。それも、一流の哲学者の考えたことをひとつのモデルとして提示することによって。私たちにいろいろな可能性があることを教えてくれる。決して、答えが一つ出るというものではない。こうも考えられる、こういう考え方もある、それを繋いで、与えられた問いに対する出口を探そうと共に歩むのだ。
 人は、何かアイディアが思い浮かぶと、それが絶対正しいように思い込んでしまいがちである。自分の考えついたことが正しいともう有頂天になる。ネット社会を見ると、こういうものばかりだ。そこへいくと、自分の思いつかない考え方や、自分の考えが浅はかであると一刀両断にする思想など、いくらでも出会うことができるものである。これに気づかずお山の大将になりがちなのが、SNSの世界である。
 これを避けることができるとするなら、哲学ほど人の精神のために、また世界平和のために、役立つものはない。「考える」ということは、考えをもたない人が判断する程度に簡単なことではないのである。それを一回15分で共に哲学史の中から味わう経験をしよう、という案内書なのである。私はとても有意義であった。
 最初のほうは、その「考える」ということそのものについて、あるいは「考え方」などといったレベルでゆっくりと始まる。それが次第に、「森のなかで倒れた木」は存在するか、という興味深い問題で、様々な角度から物事は考えられるのだという世界に具体的に入っていく。もうこの時点で、存在するに決まっているだろうが、と小馬鹿にするような方がもしいたら、そういう方のためにこそ、本書はあるのだと言ってよい。それだけで済ましても、そこそこ世の中では生きていけるはずである。生活費は稼げるだろうし、良き市民として暮らすことも可能だと思う。が、何か問題が起こったとき、誤った思想や導き手に、簡単に乗せられて流されていってしまう、ということも大いにありうるのも確かである。存在するに決まっているだろうが、という怒りに満ちた感情は、ある政治家が、これこれに決まっているじゃないですか、の声に、安易にその通りだ、と加担していく可能性が高いのだ。ほかの視点はないか、決まっていると言われたそのことで、犠牲になる人がいるのではないか、そんなことを考える余地がなくなるのである。
 さて、ここまで言うと、「森のなかで倒れた木」が存在するのかどうか、存在しないという可能性があるかもしれない、ということにお気づきになっただろうか。もちろん、ここでいう「存在する」という語がどういう意味で言われているか、というところにひとつの問題がある。しかし、日常的に考えても、私たちはいとも簡単に「存在しない」という結論を出して生活をしていることに、なかなか気づかない。道路脇に車を留めるとする。歩行者の迷惑になることを考えない。そのドライバーにとって、歩行者は存在しないのである。いや、車を避けて歩けばいい、という程度に考える人もいようが、重い荷物を抱えた人、車椅子の人、視覚障害のある人、小さな子ども、こうした人々にとって、違法駐車の車を避けて道路の真ん中の方に出ることは、たいへん危険なことであり、誰かの命が奪われるかもしれない。しかし、そんな人など「存在しない」と考えているからこそ、安易に留めることができるのであって、これは否定しようがない。同様に、「森のなかで倒れた木」は、それを知らなくてもいい人、考えたくもない人にとっては、存在しない、というのが、私たちの普段とっている考え方ではないだろうか。
 今の例は、本書に書いてあることではない。私が「哲学した」あり方である。こんなことが浮かんでくるほど、刺激満載の本だ、と言いたかったのである。
 話は、認識論に走り、自由論が結構詳しく検討される。意識の問題があると、自我論へと進む。世界観への眼差しも始まるし、因果論の考え方と未来への考え方が繰り広げられる。そこからまた、幸福論について考えはじめ、死の問題や神の存在と信仰の意義、動物と人間の相違について考えると、言葉という大切な問題へと目を向けさせる。
 最後は倫理学的な領域に入る。なすべき判断について、と少し抽象的な話から始まるが、「魔女」を火あぶりにすべきか、という、宗教が現実にやってきたことが果たしてそれでよかったのかどうか、また何故そんなことをするに至ったのかを考えてみる。動機と結果についてのバランスのよい考え方はないだろうか。戦争はどうしてなされてきたのだろう。理想社会は実現可能なのだろうか。しかし人は平等でなければならないともいう。ありうるのだろうか。個人と集団という問題は、広く応用の利く問題である。ここでもまた幸福とは何かについて言及されることになるだろう。
 しかし現代らしく、AIについての問い、これは過去には起こらなかった。空想的になされることはあったが、非常に現実味を帯びて対処しなければならない問題となっているのだが、哲学の世界で一定の合意ができているようには思えない。監視社会も切実なテーマである。良心から監視社会を裏切るというのはどうなのか。スノーデンの事件が取り上げられている。施しの是非、自殺してはいけない理由、そもそも自殺と言える場合と言えそうにない場合の違いは何か。本書は、この辺りのテーマで締め括られる。
 哲学は終わりのない探究だ。最後にこのように語り告げられる。「自分は何を考えるべきなのか」、これが誰もが取り組むべき本当に重要な疑問である、と結論づけられているようにも見える。自分にとっての真理というものは、哲学しない人間にとっては、危険な暴力の根拠となる。しかし、哲学する人間にとっては、最高の目的となりうるものとなるであろう。この意味がうっすら感じ取れる人、あなたはもう哲学する世界に入るだけの素養をお持ちだ。どうぞすぐにこの教室に入って戴きたい。歓迎する。




Takapan
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