本

『14歳からの哲学』

ホンとの本

『14歳からの哲学』
池田晶子
トランスビュー
\1260
2003.3

 明確なコンセプトの下に記された、哲学の書。ソクラテスの対話術のような、日常語による追究をモットーとする著者だけに、中学生向けの言葉で挑まれたこの重い課題は、どのように世間に受け容れられただろうか。
 議論の内容は、手抜きなどしていない。「ある」ということの前提の確かさや必要性から始めるにしても、身近な問題からどんどん深く入っていく。それは、西洋哲学が日本において難解な訳語と共に紹介されたのとは、対照的である。そして、いくら言葉が易しくなったにしても、内容はまさに、思惟することそのものであるという、これまたソクラテス流の、議論の進め方となっている。
 ただ、これもソクラテスと同様に、時に強引で、時に別の可能性もあるんじゃないの、と言いたい場合も感じ、それでも自分の意図する一方向へ導こうとする手法を、なんとなく覚える。ソクラテスの対話術にしても、本当に自分の意図も何もなく導かれているのではなくて、あれはソクラテスの企んだ方へ蟻地獄のように吸い込まれているだけのことなのだ。
 生きることから考えること、社会との関係などについても、中学生の身近な問題を正面から捉えていく。はたして本当にこれが中学生に読めるものになっているかどうかは分からないが、そうした日常語で思索することは、たしかに意義深いものがある。しかし、日常語だということは、それだけ作為的でないだけに、概念に曖昧さが伴うことも否めない。ソクラテスもそこに鍵があるのではないかと思われるが、言葉の外延が定かでなく、どんな意味でその言葉を使っているかという設定に、日常語は曖昧さがあるがゆえに、議論の持って行き方次第でどうとでも流れを変えることが可能であるとも言えるのだ。
 最終章は、17歳以上の哲学ということで、世界像から善悪、自由や神の問題に及んでいる。私は、著者は信仰を経験したことがないと感じた。あくまでも信仰や神といったことを、哲学の領域で捉えようとするのは、ある意味で仕方がなく、ある意味では正統な哲学であるとも言えるのだが、そのわりには、すべてのものに感謝するなどと突然言い始めるなど、素朴な日本人の信仰心がちらついているように感じられることがあった。同じ一つの山の登り口が違うだけが宗教だ、という捉え方も、ありふれた日本的信仰の姿にほかならない。ほんとうにそれは、考え抜いたものだというより、著者自身が馴染んだ日本の宗教的風土に浸かったがゆえの感覚であるように思われたのだ。
 キリスト教はもちろんだが、イスラム教も、それがテロリストである、あるいは戦闘的で好戦的であるかのような一蹴の仕方をみると、朝日新聞も乗っかっている、アニミズム的世界観から見ているのかしらというふうに、感じることがあった。
 面白い試みの企画であるとは思ったが、こうした部分に染まった後半部は、私からはお勧めできないものとなってしまった。




Takapan
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