『14歳の君へ どう考えどう生きるか』
池田晶子
毎日新聞出版
\1143+
2006.12.
私が入手したのは、2019年の第42刷である。いまなお書店に並んでおり、しかも表紙を見せて立ててあることもある。ヨシタケシンスケの表紙が人目を惹き、その効果もあるかもしれない。
年齢層に応じた哲学入門の本を幾つか著している人だが、『14歳からの哲学 考えるための教科書』というものを、2003年に出している。それは少しばかり論ずる調子があった。今回は、それをソフトに、エッセイのように意識して企画したのだという。「毎日中学生新聞」がまだ存在した頃の、最後の時期の連載記事であり、廃刊に伴い途中から書き下ろし扱いで本書が完成したという経緯があるとのことだ。
著者はそのように最後に記しているが、私はエッセイというよりも、語りかけるように綴っている、と見てよいのではないかと考えている。それはよいことだと思うのだが、その語りの中に、これこれのように君は思うかもしれないが、というような、疑似対話が盛り込まれているところに、少しばかり疑念をもつ。いま言ったように、それは厳密には対話ではない。著者はソクラテスの徒である。プラトンの対話篇にしても、プラトンの仕立てた筋書き通りに対話をさせているのであって、プラトンが思いもよらないような返答があってプラトンが苦しむ、というよなライブ感は存在しない。対話を装うような語りの場合、それはあくまでも著者の設定した対話のストーリーでしかないのだ。もし実際に、中学生が集まってそこでわいわいやっていたら、必ず著者の思いもよらないような質問や指摘が出てくるはずだ。だが、著者が疑似対話をつくっている限り、すべては想定内の出来事となるのだ。
もちろん、だから面白くない、などということはない。かなり真面目に応えているし、なにしろ世の親父たちが答えるような、ベタなお説教というものがどこにもない。だから、これは哲学者が想定した子ども事案というもので成り立っている、対話のような探究だということになる。
さて、その内容を、さしあたり一点に絞ってご紹介することは、見本の役割を果たす意味で、勝手によいかと思って試みる。
それは「戦争」という項目である。池田氏はもちろんソクラテスを師とするような哲学徒であり、若者に向けても本書のように多くの良い導きをしている。そうなると、戦争というのは避けて通れない課題であると思う。が、私はむしろ人生論に近い方がお得意かと勝手に考えていたわけで、その意味でこの戦争論は新鮮だった。
日本の平和憲法を評価するものの、「平和がよいもので、戦争は悪いものだと思う」のが適切かどうか、議論をもちかける。「いやなことが悪いことだとは限らない」からだ。また、「平和が平和だとわかるのは、戦争というものがあるからだ」というのも本当だ。
人間は、「置かれた立場によって、ものの見方」が全然違うことを承認すべきである。では「戦争とは、本当は、何なのか。」
まず事実を押さえておく。「人間の歴史とは戦争の歴史」である。戦争の原因は、「とても一言で言うことはできない」わけで、「どうして自分たちが戦争しているのか、本当はわかっていないのではないだろうか」と問う。
では、「史上のすべての戦争に共通する、本当の原因」はないだろうか。池田氏は身を乗り出して言う。「すべての戦争、どの時代どの場合でも必ず、人間によって行われるすべての戦争は、必ず集団によって行われている」のだ。その集団とは、何らかの「共同体」であるが、共同体とは、「あくまでも人々の「考え」だ」ということを押さえる。考えの中にしかないものは、一種の「作り事」である。たとえそれを「民族」と呼んでも、「人々をひとつの集団に結束させようというのも」同様に作り事の世界なのだ。
その「共同体のメンバーとしての自分が自分なのだと思い込んでいる」のである。「有史以来戦争を繰り返してきた人間は、すべてこの勘違いを犯している」と池田氏は言う。そして、自分をそのような何者かに規定するということは、「同時に「自分以外の者」をも規定することになる」故に、敵と味方という「対立へと変化する」ことになる。だから「戦争とは、「自分たち」が「自分たち以外の者」を、「敵」として武力で排除しようとする集団的な心の動きだと言うこともできる」のだ。
人は、「正義の名の下に、団結を固くすることもできる」故に、「共同体は戦争という行為を正しいものにしてくれるのだ」という指摘は重い。だが、「各人の頭の中にしかない作り事の、正、不正を、どうやって判断することができるだろう。人間にできるのは、現実に存在する人間、現実に存在する個人が、その置かれた現実の中で、いかに正しく行為できる、それだけなんだ」と言い切るとき、戦争反対などと「口で言うのは簡単だ」が、もっと深いところのものを「見抜いてゆくこと」を大切にする著者のスピリットが強く吐き出されていると言える。だから私たちは、「考えることをやめられなくなる」し、それでよいのだ、と結んでいる。
こういう調子であるから、一つひとつの項目にも、よく練られた、熱い思いと論理が通っている。ただ、もう詳述はしないが、「宗教」という項目だけは、私は納得できない。哲学者らしい判断から、神を信じる必要はなく、むしろ「自分こそが神であり仏だ」というような結論に走るのは、一つの筋道とて咎めることはしないつもりだ。しかし、そこで否定されている「神を信じる」ということが、どこの論旨においても、すべて「神の存在を信じる」という意味に限定されて使われていることに、問題があるのだ。神の存在を問うとき、確かに哲学でそれは説明できない、というのが本筋である。しかし、キリスト教などが信じているのは、「神の存在」ではない。そうではなく、「神を信頼すること」の方にシフトした方が、より適切である。決して、「神の存在」を信じるというのが、宗教の信仰していることではないのだ。しかし池田氏は、ただ存在を信じるということを認めないだけであり、それでいて、「自分を信じるんだ」と切り換えるときには、自分の存在のことではなく、自分を信頼することにすり替えている。論理が通っていないのである。
また、一神教が戦争好きだ、と決めつけているように中学生に迫るところも、明らかに検討不足である。他の本でもそうだったが、宗教については、経験のない池田氏の論理には、歪みがある。ここだけは気を付けて読んで戴きたいと思う。
なお、「保護者ならびに先生方へ」という題をもつ「あとがき」の結びのところに、お洒落な宣言がある。私はここが好きだ。「受験の役には立ちませんが、人生の役には必ず立ちます。」いやいや、個人的見解では、受験の役に立つと思う。国語の文章の読解には、こうした考察を経験した「思考の溝」が必要なのだ。役に立つのだ、と援護しておきたい。
その提言が、2007年以降、もはや著者の耳には届かなくなってしまったのが残念である。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド