『十二月八日・苦悩の年鑑 他十二篇』
太宰治・安藤宏編
岩波文庫
\910+
2025.3.
太宰治については、熱心にファンがいるようだ。そうした方に届くかもしれないと思うと、緊張する。私は太宰治について何も書くことをもたない。昔少し読んだかな、というくらいで、念入りに読んだとか、幾つも読み続けたとかいう経験がない。
しかし、本書はそのタイトルになんとなく惹かれて、購入したというものだった。
短編集である。長くても、文庫で30頁以内であるし、短いのは10頁もない。これらは、1942年から1946年にかけて発表されたものらしい。戦中から戦後へ、激動の時代である。だが、興味深いことに、終戦と共に作風が違う、というふうには感じさせないのである。太宰は太宰である、ということなのだろうか。
それと、これらは確かに「小説」だとされているのだが、何か日記を文学的に綴ったものではないか、というふうに錯覚してしまうのである。実際の自分が登場する。実際に経験していたことが記される。友人などの登場人物も、そうした名前でいくらでも登場してくる。
本書には、かなりくわしい注釈が付いている。全部で50頁分ある。そこには、研究者が突き止めた、ここに出てくる人物がどういう人であるかとか、この場所が太宰にとりどういう意味をもっているかとかを、簡潔にだが私には丁寧に解説しているように思えた。
それを頼りにすると、これらは史実や、実際の人物のことを描いたことが分かると共に、ときおり、これは創作である、という説明も入る。実名が出ていながら、これは決して現実の記録をただ記したのではない、ということになる。その意味では、確かに小説なのだ。小説が実際の人物を登場させて悪いという決まりはない。歴史小説は、確かにその通りだ。しかし、それは過去の人物であるから、許される側面がある。だがこれは、太宰と同時代の人々である。その辺り、描いてよかったのだろうか。友人たちだから、問題がなかったのだろうか。
こうした基本的なことについてでさえ、私はよく理解できていない。だから無知な者が、短編を幾つか読んで、無責任な感想文を書いているに等しい。
戦時中に、自分の作品が発禁処分を受けたこともある、といったことも知らされる。ずいぶんと冷静な観察眼をもっているのは流石だ。文学者というのは、そうありたいものだ。ただ、言葉の端々に、と言うと大袈裟ではあるが、何か危なっかしいものを感じてしまうのは何故だろう。結果として太宰が、自死を試みることを繰り返したというような話を聞いているからかもしれない。ここには淡々と言葉が連ねられているが、ふっとあの世への端を渡ってしまいそうになる危うさが漂っているように感じられてならないのだ。
かと思うと、全くのお伽噺も混じる。文学に長けた者が美しくまとめあげて綴るものは、やはり味わいがある。ただ、それも何かどこか不安定なものを感じさせることには変わりがない。
それにしても、太宰がさりげなく、度々聖書に触れるということには、どれほどの文芸評論家が強調してくれているか知らないが、私は非情に関心をもつものである。もちろん本書では、注釈に多々加えられているが、もちろん私なら、そうした説明は不要だ。だがそれほどに、小説の中に、聖書の引用があるし、聖書を知っていなければ何を言っているか分からない、ということも多々あるわけである。中には、それが聖書由来の表現や考え方であることに、文芸批評家も気づいていないのではないか、ということがあるような木もする。その角度から読み解くというのは、邪道であるかもしれないが、それは太宰個人の理解というよりも、当時の社会や文学者たちの中での聖書の位置づけや聖書についての理解に、関係があるのではないかと思われる。一つの研究テーマとなるかもしれない。

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