本

『十戒・主の祈り』

ホンとの本

『十戒・主の祈り』
関田寛雄
日本基督教団出版局
\550
1972.10.

 この時代の550円だと、ずいぶん高い部類に入るのではないか。ネットの見本写真は紙製で明るいデザインだったが、送られてきたのは古いデザインでビニルカバーが付いていた。1979年発行のものだ。7版であるから、キリスト教関係の新書としてはよく売れたものだと驚く。
 著者については、他の著書で説明したのでここでは略すが、学生の面倒見のよい、尊敬された先生のようだ。学説としては決して生ぬるくなく、学的な常識をきっちりと抑えてくるのだが、その背後に確かな信仰が裏打ちされているのが伝わってくるので、気持ちよく読むことができる。そして、語るものに信頼性を抱くことができる。
 本書は、十戒と主の祈りに特化した解説書であり、さらには黙想の本としてもよいかもしれない。巻末に書いてあったが、神学校の卒論が「主の祈り」だったのだそうだ。思い入れもあるだろう。また、だからこそ深い洞察に満ちたものを感じることができたのかもしれない。
 聖書の文献としての価値や解釈の歴史などを踏まえながらも、これは恵みの福音である、とずばりと言い切るところは、頼もしい。研究者の中には、聖書からどうにも距離をとって眺めているばかりで、それだからこそこれは客観的に正しいのだ、と言おうとする姿勢がありありと見える人もいるのだが、本書において著者は、信仰の態度を明らかにしていると思われるのだ。
 それでも、エロヒームが多神教時代の名残を含んでいるなど、学界の理解を随所にさりげなくも盛り込んでいて、切れ味がいい。ただ、これは入門書やエッセイの部類に入れてもよいようなものであるため、出典や根拠を注釈で示すようなことはしない。もしもそうした点で気になることがあるのだったら、またそこから読者が各自追究するのでなければならないだろう。
 人間が神に出会いたいとの望みは、それ自体悪いものではないかと思っていたが、それこそが偶像礼拝の動機となるのだときっぱりと書いてあるのも、心に残った。いろいろな神学者や、日本の研究家などの理解もあちこちで交え、読むだけで様々な人の考えに触れることがてきる。これだけの素材を、200頁もない小さな本の中で、よくぞまとめあげることができたものだと驚くばかりである。
 十戒になると、親子の問題で、あるいは姦淫の問題でも、現代文化的な観点からの社会批評のようなものも入り、退屈させない。後者においては、かなりショッキングな映画の説明も含まれており、涙が出そうになった。
 国際的な視野から、日本がどういう方向に進んでいくべきか、そうした点からも宣べる件がある。ほんとうに幅広いものの見方をしている方であると言える。そして十戒については、自由の問題に読者の目を向けさせて閉じる。優れた導き方は、やはり教育的な配慮ができる人だからということもあるのだろうか。だがやはり、根柢にある信仰の魂が、こうした爽やかさをもたらしているのではないか、とも思う。
 主の祈りにより私たちは主と出会う。そしてさらに深く主の祈りを祈る者とされる。こうした観点から入りつつも、ディダケーなどの聖書外の文献も持ち出すのが私好みである。しかも、マタイとルカについての比較についても、これほど分かりやすく語ってくれたものがあっただろうか、という気がするほどであった。自分の心の中の見にくさのようなものもえぐり出されるようでもあり、これは説教としてもよいものであるに違いないと思った。
 みこころは、私たちによってではないが、私たちにおいて、私たちを通して行われる。小気味よいリズムで、福音の中核的なことが伝えられると、本書ではそう突っ込んで述べているわけではないが、罪と赦しというテーマを、私たちがもっと根本的な意識を伴って見つけ、自分に問いながら聖書を読んでいく必要があることを思い知らされた。
 ともかく、実にコンパクトでありながら、十戒と主の祈りについて、何かを考えるとき、また少しばかり説明をしてみようかと思ったとき、十分な情報が詰まっていることを感じた。分かりやすい言葉で、読者に届く説明によって、しかもこれだけの簡潔な叙述の中でこれを伝えられるということは、地味かもしれないが、たいへんな特技であると私には分かる。教育とはそういうものでなければならないし、このような方に聖書を学ぶことができた学生は幸せではないかと思う。だからまた、多くの人に慕われ、その本が出版されていくのだと納得できるのであった。




Takapan
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