本

『百鬼夜行絵巻』

ホンとの本

『百鬼夜行絵巻』
湯本豪一
小学館
\1995
2005.12

 大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つである真珠庵に伝わる『百鬼夜行絵巻』が有名である。土佐光信作と伝えられている。
 この本は、それを中心として、百鬼夜行絵巻にまつわる資料と解説を試みた、手軽な案内である。
 この妖怪たちの絵巻、たしかにどこかで見た、聞いたという感じのするものだが、私個人にとっては、手塚治虫の『火の鳥』が出会いだったと思う。その「異形編」(1981)の最終頁には、次のような言葉で締めくくられている。
「可平(登場人物)は、のちに土佐光信の弟子になり、土佐光慶と号した。有名な「百鬼夜行絵巻」は光信の作となっているが、光慶はかつて写しとった患者たち(出会った妖怪たち)の絵を師匠に見せて、イメージを作る助けをしたという話である」
 手塚治虫の手法についてはともかくとして、この印象は私にとって大きく、この素敵なアートセレクションのシリーズに、そもそもあれはこうなんだ、というふうな感覚で楽しめる素地となった。
 謎の多い本であるが、多くの人の興味を惹いたのも事実で、後の世に類似のものを多く生み出させている。妖怪にしても、器物の妖怪が多いなどの指摘がしてあるが、そうした伝統も、ちゃんと「ゲゲゲの鬼太郎」が受け継いでいるのかもしれない。
 闇の部分をなんとか説明しようとする知恵として、妖怪があるとするなら、この絵巻は、あながち悪趣味というほどのものでもあるまい。私たちは、悪魔にしろ妖怪にしろ、そうしたものを想定して立ち向かう性向があるかもしれないのだ。
 だのに、もしも近年こうしたものが受け容れられないとするのならば、闇は行き場をなくして、私たちの心の中に巣くうものとして捉えられるようになったのであろうか。それとも、そんなものは幻想だとして、闇を無視するようになっていったのだろうか。恰も、「心の闇」というものは、特定の犯罪者にのみ属するような言い方をすることによって。
 故きを温ねて新しきを知る。私たちは、もっと古典に目を向けなければならない。




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