預言者と正義

2006年7月

 預言者は、世の不正を暴き、正義を主張しました。

 聖書の記された観点は、唯一なるイスラエルの神、主を信じて従うならば、それは善であり正義であるが、この主を捨て他の神々を信じたとなると、悪だというものです。

 ですから、預言者たちは、最初から、善と悪とがはっきり主張できる立場にありました。つまり、主の言葉を受け容れる王は善であり、受け容れないならば、悪である、と。極めて分かりやすい善悪の決着の付け方だと言えましょう。

 

 この読み方によっては、現代日本のクリスチャンを預言者になぞらえてしまうことをやってしまいます。世の風潮に逆らうことを言っても、実は世の中のほうが不正なのだから、クリスチャンは信ずる正義を貫かなければならない、などと。

 ところが、これは怪しいわけです。なにせ、預言者は、神を信じる者を善、信じない者を悪という呼び方で定義しておいて、発言しているのですから。これをそのまま使うと、クリスチャンは常に善の側に立つわけです。

 神を信じると公言する超大国が、つねに自分を正義と称するのと、似ているかもしれません。

 

 では、一般人は昔、この正義と不正の問題を、どのように見たでしょうか。

 預言者が、王に対して、「あなたは悪を行っている」と言い、その時代を「不正の時代だ」と批判するとき、一般人は、その預言者を、むしろ窮地に陥れる側に立つような様子が、しばしば聖書に書いてあります。

 一般人は、王を支持するわけです。

 冷静に調べれば分かるのですが、預言者あるいは聖書の記者は、イスラエルないしユダの王国の危機をつねに王の不信仰の原因にしているわけで、神を信じなかったということのゆえに失敗したのだと記述をしますが、往々にして、それらの王は王国を、政治的経済的には、かなり安定させるだけの力をもっていたようです。

 ほんとうに腐敗した悪政の限りを尽くしていたような印象を、クリスチャンである私たちは一読してもちますが、政治的手腕が果たして吐き捨てるほどに悪く、才覚がなかったかといえば、そんなことはないと思うのです。

 

 一般の人々は、王の政策を支持している。だからこそ、王国は何十年と続くわけです。

 多くの人々が、この安定した王権を、善だと見ている。これを、正義だと捉えています。

 そうした評価の中で、預言者は、それを「不正だ」と形容しました。明らかに不正であるから不正だと言ったわけではないと思います。社会的に正義であることについて、不正だと言い放ったのです。

 このとき、正義というものさしは、神への信仰に沿っていました。

 

 今の私たちには、この手法は使えません。神を信じているか否かによって、善と悪、正義と不正を判定することは、社会的に許されないからです。

 ただ、世の大勢が流れていく方向に対して、疑問を呈することなら、幾分違ってくるかもしれません。

 クリスチャンは、世を「不正」と称してはいけません。それは高ぶることですし、自分を神とすることにもつながります。時折「預言者気取り」という言葉が聞かれますが、まさにそういう状態となります。

 そして、神とは別の基準によって、「不正」を指摘したいものです。ただし、そのときは間違いなく、「では自分自身の中に不正はないのか」という反論が出ます。人から出なければ、神から出されます。

 だから、クリスチャンは、絶えず悔い改めをする必要があるわけです。つねに自分が正義であるとは限らないのですから。そして、それがまた、強さにもなるわけです。

パンダ


Takapan
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