クリスマスをめぐる対話2002

2003年1月

「今日のクリスマス礼拝、よかったな」
「楽しかったな」
「祝会での君のコント、大受けだった」
「ちょっとした特技かもな……それはそうと、新しく教会に来た人の姿がなかったのが、ちょっと淋しかった」
「誘いはしたんだけど、なかなか敷居が高いらしい」
「それに、ほかの予定があまりにもありすぎるんだろう。Fのコンサートもあったし、街では教会に負けないくらいの催しが目白押しだからねえ」
「そこなんだ――だいたい、クリスマスというのが、キリスト教のものだってことが、あまりにも蔑ろにされている」
「誰だって、知っているよ、そんなこと」
「いや。世間でクリスマスといえば、プレゼントのことか、恋人どうしの恋愛の背景かアクセサリーに使われているものでしかない。商業主義に毒されているというわけで、かのローマ法王も、ついに、世の中のクリスマスはおかしい、と言い放ったというじゃないか」
「つまり、教会の質素なクリスマスに戻せ、と?」
「そうだ」
「一度知ってしまった欲望を消してしまうことほど、困難なものはないだろう」
「だが原理としてはだな……」
「つまりおまえは、嫉妬しているのか?」
「嫉妬?」
「教会以外でクリスマス、クリスマスと口にされるのが悔しくて、嫉妬しているんじゃないのか? そんなふうに見えるぜ」
「……嫉妬……なんだろうか?」
「いや。おれも言い過ぎたかもしれないが、まあ、それに近い心理かもしれない」
「自分だけのクリスマスというものが、汚されたような感覚に陥っているというわけか……」
「当たらずと雖も遠からずだね」
「クリスマスは教会で、というのが一つの合い言葉になっている。皮肉なことだ。なんで、本家本物が遠慮しなけりゃならんのだ」
「それ自体が、クリスマスが手を離れて行ったことへの、淋しさがあるのかもしれない」
「いったいなんで、こんなことになったのだろうね」
「さっきのローマ法王の話だけどな、あれは、欧米でも、クリスマスが毒されているということだろう? プレゼント交換でさえ、商業目的のものにすりかえられている危険があるから、もっと素朴なものに帰れというメッセージだったんだ。ただ、日本の場合は、それとも違うよな、明らかに」
「日本では、福音が根付いていない……つまり、異文化の中でのクリスマスということか」
「そうだ。クリスマスに限らず、日本が異文化を取り込むという行為の中に、あらゆるものが溶解されていく事実があるんだ。あの、芥川龍之介は、日本には魔物が住んでいると言っている。おどろおどろしい空気のようなものが、日本にはあって、すべての外国文化を溶かし包み込むのだという意味のことをたしか記していた。得体の知れない、魔力をもった空気が日本全体を包んでいて、あらゆる外国文化を、その力をすべて奪いながら取り込んでいくシステムがあるというんだ」
「クリスマスも、その犠牲者の一人というわけかい?」
「ああ。クリスマスに限らずだけどね」
「つまり日本は、天皇制のもとに一つの柱をもっているから、すべてはその制度のもとに集められて、奉仕されるという……」
「待て。天皇制とは関係がない。それより、天皇制そのものが、異文化を溶かし込んで作られた産物でしかないのだ」
「なんだって? 天皇制とは、日本が世界に誇る、最古の王室であって、かの戦争も、思想統制も、すべてが日本独自の天皇という名目のもとに集結・統一されていったんじゃないのか?」
「いや。天皇という読み方そのものを考えてみろよ。音読みだぜ。『おほきみ』とでも呼んでいるなら、まだ日本古来の響きがあるに違いないのだがな。それに、皇室の仕組みも習慣も、世とは異様なものがたくさんあるが、歴史をたどれば、中国や朝鮮に由来するということが分かっているんだ。つまり、輸入品なんだ。もともと日本にあったというわけじゃない。結局、中国と朝鮮からの文化に基づいているばかりじゃないか」
「ということは、天皇という存在もまた、日本にあるその不気味な魔物とやらが、うまく溶かし込んでしまった制度であるというのかい?」
「そういうことだ。まさにエフェソ書二章でパウロが語る、『空中に勢力を持つ者』としての悪魔のようなものじゃないかと思う」
「クリスマスもまた、そういうわけか……」
「たぶんな。クリスマスもまた、すっかり骨抜きにされる運命だったんだ」
「恐ろしいものだ」
「恐ろしいことは、まだある。今のキリスト教は、迫害ということはないように見えるし、一応の評価で社会に受け入れられているように見えるよな。だが、そのことは同時に、完全に飼い慣らされた犬として評価されてしまったという事実を物語っているんだ。クリスマスという行事だけがそう扱われているのなら、まだよかったんだが」
「どういうことか、説明してくれ」
「島原の乱というのがあった」
「知っている。天草四郎時貞を旗頭に、農民を巻き込んで幕府に抵抗した、キリシタンの乱だったな。その後、キリスト教が完全に禁教となったという……そうか。このとき、キリスト教が封じられてしまったために、日本がキリスト教を理解することから完全に遠ざけられてしまったというわけなんだな」
「封じられているだけなら、まだましだっただろうに」
「なんだって? 禁止されているほうがまだましだって?」
「迫害されればされるほど、ますます熱心になるということもある。実際、島原の乱以降も、隠れてキリシタンの教えを守る人々は、迫害の中でこそ守り通さねば、との思いが強かったのだろうと思う。だが、とにかく権力者にしてみれば、このキリスト教というものは、気味が悪くて仕方がなかった。どうしてこんなに死を恐れないのか、得体の知れない力が背景にあるようで、その信仰の強さを亡霊の如くに恐れた。まざまざとその気味悪さを体験した武士たち権力者は、ヒステリックにキリシタン狩りに邁進したのだ」
「その結果?」
「禁教が徹底された。もうキリシタンたちが団結して事を起こす可能性などなきに等しい状況になったにもかかわらず、宗門改めだの踏み絵だの、これでもかというほどヒステリックに絶滅を目論んだ」
「封じる程度なら、そこまでしなくても十分だった、というわけか」
「そうだ。殺しても殺しても生き返る亡者のごとく、キリシタンの中に、これまでの日本の常識が適用できない、気味が悪い魔物を感じたわけだ」
「それは分かった。だけど、先ほどの、飼い慣らされた犬ということとそれとが結びつかない」
「では訊くが、明治になって、外圧から仕方なくキリスト教を許可したとき、喜んだのは誰だっただろう?」
「そりゃ、信者たちだろう。それまで隠れていたのが、出てこれるようになって……」
「すぐにそうなったわけではない。政府は、建前だけ、自由を口にして、西洋諸国の矛先を和らげたのだ。ちょうど、今の世界でも、査察を受け入れるときに、連合国に敵対する国がそのように訴えるものだがね。人々は、キリスト教を今日から、ハイ仲間ですよ、と受け入れるだろうか。とうてい無理だ。根強い差別は残る。しかし、さらに熱心に、政府はキリスト教を認めていくとなると、どうなるか。政府にしても、この信仰の力を別に活かす道はないか当然考えるようになってくるだろう。むしろ許可を与えて当局の目に触れ、コントロールしやすいようにしておくとよいと考えるに決まっている。そして、人々に、キリスト教を呑み込ませようとした」
「キリスト教を呑み込む? どういうことだい。聞き捨てならないが……」
「キリスト教を、おだてたのだ」
「おだてた?」
「キリスト教はよい宗教だ、立派だ、偉い、と賛美した。クリスチャンといえば『敬虔な』という形容が、ステレオタイプのようにつきまとうまでに」
「悪い評判が立つよりはましだろう。あの宗教は危険だ、と……」
「それも、一理。だが、この何でも許容するようにして、すべてを溶かし込んで自分の形に変容させる力をもつ日本という風土の中では、それは致命的なことだったんだ。骨抜きにされるためにはね」
「そうだろうか」
「民衆の間でも、いいだけキリスト教をヨイショしておいて、その実、そこからは距離をおいている、つまり、いい気になったキリスト教会が、独り踊らされていい気になっているだけ、という構図ができあがってしまった」
「勝手に信じるなら信じておけ、だが……」
「様子は見張っているぞ、とね。そして、何か事があると、敢然と教会からは背を向けた行動をとる。日頃は教会に、いいものですね、などとおべっか使っていながら、その実何の帰依もしないでいるわけだ」
「淋しいものだね」
「それが、この国の、魔物と呼ばれるものだ」
「クリスマスもまた、例外ではなく、すっかり骨抜きにされてしまった、というわけだね。馬鹿騒ぎの場でしかなかったり、恋愛のための背景、ひどく言えば欲望のための機会にさえなってしまっているくらいだから」
「そうだ。ただ、希望がないわけじゃない。たとえそれが欲望の目的であっても、人は何かクリスマスというものに、『聖』なるものを感じている。聖なるものを完全に拝することだけは、なかなかできないようだよ。そこに、どうしても人間として消すことのできない、神との接点のようなものが残されているような気がしてならないんだ。否定してもしきれない、拭おうとしても拭いきれない、神の被造物としての人間にあるべき、何かがね。それは、救いへの足がかりになりうる。現に、そんな中から神に導かれた者はいくらでもいるわけだし、第一、このおれがそうなんだ」
「へえ。そうなんだ」
「おれでさえ、こんなふうに今神のことを考えている。日本のことを考えている。この事実がある限り、また次のそうした奴が、今日もまた起こされているということを、信じない理由はないと思うんだ。そしてそこに、神の命が受け継がれる真実というものがあるようにも、思える。そのためにも、小さな機会を精一杯利用して、神のすばらしい救いを、知らせていく努力を怠ることはできないと思う。自分が放つ小さな一言を耳にして、そのことがいつか大きな救いへ導かれる原因となるということが、ないとは言い切れないのだから」
「クリスマスもまた、そんなひとときとして、活かされるといいね。少々、パーティ気味であったとしても」
「そのためにも、やはり、福音は、まず教会に集う信徒にこそもっと強く切実に響くものでなければならないと思う。牧師の説教は、新規の人に対してでなく、長い間通う、いくぶん新鮮みをなくして生活を続ける信徒たちの心を切り裂くような鋭さをもって投げかけられなければならないはずだ。福音は、すでに信じている者のためにある、とさえ言ってよいかもしれない」
「極端だね」
「よい知らせは、ユダヤの全土に響き渡らなければならない。ユダヤ人が最初に伝道されたように、実は聖書の救いの言葉は、信じていると自称しているキリスト教信徒たちにこそ第一に、そして最後まで、伝えられなければならないものなのかもしれない」
「クリスマスのメッセージも、いつまでも新鮮に響くものでありたいね」
「そのためには、自分自身が、神とどう向き合うかということを第一に考えていなければ始まらない。そしてそのことは、限りなく孤独な現代人は、少なからず気づいているし、感じているはずなんだ。あの、携帯へのものすごい依存を見てごらんよ。いつも誰かとつながっていたい、いつも何らかの情報に囲まれていたいというのは、孤独であることの証明のほかの何事でもないだろう。回りの人への迷惑や加害性などまったく考慮しないで、電車の中でも自転車に乗りながらでも、携帯をやめないというのは、目の前の人とは交わりたくないくせに、どこか遠くの何かとつながっていたいという現れだぜ」
「それは、現代人を非難しているということかい?」
「いや。非難しても始まらない。それは、かつての――あるいは今現在もそうかもしれないが――おれの姿なんだ。自分がそこにいるような気がしてならないから、だから切ないんだ。彼らに伝えなければならないと同じくらい、おれは自分自身に伝えなければならないと思うし、自分に戒めようという気持ちと同じくらい、ほかの人たちにも伝えなければならないという思いでいっぱいになるんだ。このクリスマスのシーズンが終わったとしても、いつでもどこでも、イエスが心に生まれることができるのだから、神と出会って新しい人生の一歩を進み始めるという体験を、自分も、そして回りの誰もが、経験してほしいという祈りが押し迫ってくるようだよ」
「行事としての、一過性のクリスマスとは違う、いわば恒常的なクリスマスを願うというわけだ」
「それが、魔物に勝つ、一つの大切な方法だと思うよ」

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