教会とは?

2001年10月

 美しい、荘厳な、神聖な……などと形容される「教会」。ヨーロッパの文化が築いてきた建築物が、どうしても頭から離れないのは、当然と言えば当然です。

 けれども「教会」とは何か、それは教会に集う人々にとっては、考えが定まっています。

教会とは、信じる人間の集まりのことだ、と。

パンダ

 建物はそれを包む一つの器にすぎません。あくまでも、そこにいる人間が対象です。しかも、その人々は、ただ人間の理屈や目的で集まっているのではなくて、神に呼ばれて召集されたという理由でそこにいます。

 なんだか、難しい話になりそうだと思いますか。

 自分が何かをする、何かをしたい、しなければならない……そうしたとき、私たちは、つねに自分の立場でしかものを見ることができないでしょうか。いえ、誰それのために一肌脱ごう、とか、地域のためにしなきゃならん、とか、自分以外の何かのためにするということがあると思います。

 私たちは、小さな自分からばかりでなく、広い立場から自分をとらえようとすることが、実際にあるわけです。

 神の側から、自分をここに呼んでくれた……そうした思いが生まれたとしても、特別不思議なことではないように思うのですが、どうでしょうか。

パンダ

 英語で calling, ドイツ語で Beruf という言葉があります。「職業」と日本語に訳します。しかしどちらにしても、「呼び出される」という意味の言葉です。神により、その仕事をするように呼び出された、という由来をもつ言葉です。

 教会と訳されている、ギリシア語で「エクレシア」という言葉もまた、呼び出されたもの、呼び集められたもの、という意味の言葉です。もともとは政治的な意味合いから作られた言葉だったのを、信者たちが転用して使うようになりました。会衆に教えるような響きが漢字にはありますが、実際は、神に呼び出されてそこに集められた人々のことをさしています。

 建物でなく、人のことです。

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 建物について言えば、日本では、見たところ普通の民家の中で、礼拝が毎週行われている、ということも少なくありません。

 そもそも欧米から伝えられてきた歴史があり、しばしば欧米からの宣教師の指導で教会の会堂が建てられたという背景がある以上、欧米風の建物も、古くは多くありました。ですが、しだいに日本人の手により教会が始められるようになると、建物にこだわらず、ともに集うことを重要視した形になりました。……とはいえ、金銭的に苦しくて、建物が築けないという場合もまた、ほんとうの理由だったかもしれません。

 仏教の寺にしても、最近はコンクリートのビル化があったり、マンションの一室のようなところに収まっていたりしますから、教会が木造モルタルだって、構わないと思うのですけど。

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 寺と檀家とのつながりは、鵜飼いのように、寺から一本の綱でそれぞれの檀家が結びつけられているみたいです。檀家同士がともに交わり、毎週集まるなどということは、あまりないでしょう。しかしキリスト教会では信徒同士が交流するところにこそ、教会たるゆえんがあるのですから、毎週集まって交流するのが普通です。

 人付き合いが苦手な人もいるでしょうって?

 なるほど、そんな人は、交流というのは苦手かもしれません。でも、この交わりは、無理強いするものではありませんから、なにがなんでも輪に入れようとするものでもありません。実際、静かに礼拝に来て、ただ静かに帰って行くという人がいてもいいし、カトリック教会はそうした雰囲気のところが多いようです。


 あまり心配しないで、ちょっと足を運んでみるとよいかもしれません。たしかに教会もまた人間の集まりですから、気の合わない人がいたり、どうかなと思われる点も目に付くかもしれません。けれども、教会というのが聖人君子の集まりだという先入観だけもたないでいてくださったら、これはかなり居心地のよいところだと思われることも、あるのではないでしょうか。

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 一度、教会へいかがでしょう。一度といわず、何度でも。

 注意すべきことは、次の点です。

「自分たちの集団こそが真理をつかんでおり、他の教会はまちがっている」

 このように言うグループは、避けたほうがよい、ということです。


 聖書には、こういうふうに自分だけが正しいと主張する者が現れて、神に敵対するということも記されています。

 多少の理解の相違があるのは当然です。私たちは人間なのですから。神の思いのすべてを知ることなど、不可能です。地上にある教会たちは、それぞれ見えるところ、与えられた役割が異なるのであり、違っていてあたりまえです。だから教会のグループは、他のグループたちともよく交わります。意外だと思われるかもしれませんが、たとえばプロテスタント教会の牧師たちは、よく牧師会といって地域で会合をしたり、他の教派とも合同で催しをしたりと、協力しあっています。

 そうした他の人々とのつながりを切って、自分たちこそ真理だ、と主張するグループは、警戒しなければなりません。

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 秋は、各地でよく特別な催しが開かれます。お近くの教会の情報を、お見逃しなく。

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