イースター礼拝で、一人の青年が洗礼を受けました。
学校の講堂のようなステージに、2m×3mほどの水槽がしつらえてあり、そこに水を満たして、白い服を着た受洗者が全身をそこに浸すのです。
古い自分に死に、新しい命に生きる歩みを始めた青年は、すがすがしい顔をしていました。

彼は、小学生のときに、初めて教会に来ました。ちょっとした案内がきっかけでした。
母親と二人の生活で、心は優しい子どもなのですが、いろいろと学校とはそりが合わないことがありました。中学の時、あまり学校に行かなくなりました。親切な中学の先生が何度も訪ねてきてくれましたが、学校へはあまり足が向くことがありませんでした。
中学を出て二年、少し仕事もしてみましたが、結局そう長く続くことはありませんでした。
しかし、教会へは通い続けたのです。
同年代の、やはり何かと問題を抱える友だち二人を、教会へ導きました。礼拝中にお喋りをしたり、食べ物をもちこんだりということもありましたが、そのうち、彼らは変わってきました。多分に、この洗礼を受けた彼が変わってきたことが大きかったようです。それは、ある特別伝道集会でした。

洗礼式の前に、信仰告白というものがあります。自分の救いの体験を、礼拝の中で皆の前で語るのです。しかし、勉強の嫌いな彼は、短い作文でさえ、苦手中の苦手。それでも、一ヶ月かかって、何度も書き直し、この日のために準備してきました。
たしかに、それは精一杯の作文でした。しかし、行間に、彼のハートがよくにじみ出ていました。彼は、自分のそばに、共にイエスさまがいらっしゃることを、確かに感じていました。

イースターの前の週、春休みの「少年少女修養会」という催しがありました。彼は、他の中学生たちと共に、それに参加していました。
中学生の女の子は、彼の受洗を知り、悔しい様子でした。自分もゼッタイ間もなく受洗するから、と言いました。けっして家族がクリスチャンであるわけでない彼女ですが、聖書の中に、人間の生きる模範を見いだし、イエスさまが共にいるということが信じられるようになってきていました。
いいえ、彼女の素直な思いは、受洗した彼とともに、このイースターの中でいちばん輝いていたと思います。
それに対して、経験の長いおとなたちは、午後の料理の支度や、段取りのことでああだこうだと気が散って、いつの間にか人の目に映る事柄にばかり気を取られていたのですから。

主われを愛す、という賛美のとおりに、若い魂は、自分を愛してくださる神の愛を真正面から受け、真剣に自分の全体の問題として考えていました。そこには、CS教師のやり方がどうだとかいうことは関係ありませんでした。ただ、すべては神のみわざであり、神の栄光がそこに顕されていました。
子どもたちについて記せば、限りがありません。学校でも、子どもたちほど、きまりにうるさく、きちんと守らないといけないと考えています。おとなのほうが、いい加減で、互いになあなあで過ごしていきがちです。悪事でさえ、言い訳をしてよいことに変えてしまうほどです。でも、子どもたちは、信仰についても、まっすぐに考えています。変化球はありません。その直球勝負を、むしろおとなのほうが、見習わなければなりません。イエスさまが、幼子のようにならなければ神の国には入れないと仰ったのは、ほんとうにその通りだと思わざるをえません。
たかぱんも、そうした子どものような眼差しをもちたいと願いました。

