神学校デーのアピール

2004年7月

 以下の内容は、神学校のための礼拝の中で、たかぱんが、「アピール」と称して、神学校の実情をまず手短に紹介する役目を負ったときの話の内容です。
 当日は、原稿はありませんでした。直前まで、何を話すかは決めていませんでした。
 これは、後から思い出して、話した内容をまとめたものです。


パンダ

 私は、京都に長いこといましたが、そこではバプテスト関係の教会に行っていたわけではありません。でも、京都のバブテスト教会とはおつき合いがありました。

 京都の都市部では、狭い空間にたくさんの教会がひしめいています。5分も歩けば次の教会を見つけるほどです。そういう土地だからでしょうか、教団や教派を超えて、教会どうしが集まったり一緒に活動したりすることがよくありました。

 メンズ・サパーというものもありました。大人の男の人が集まる会で、年に一度、どこかのホテルの広間を借りて、食事会をするのです。音楽のゲストも招くなどして、なかなかおとなの集会となっていました。

 その集会で、会場準備などに携わったときのことです。マイクや電気機器について、せっせと仕事をしておられる一人の男の方がいらっしゃいました。最初、牧師なのかなと思いましたが、そうではなく、ある高校の先生だったということです。

 電器や配線に詳しいので、マイクや録音、証明などの機器を司る役目を負っていらっしゃいました。

 たまたま、その先生の中学生の息子さんを、私は塾で教えていることが分かりました。おっとりして、いい先生だなと思いました。

パンダ

 やがて、その先生が、献身されたことを知りました。献身とは、神さまの御言葉を伝えるために、牧師という仕事に就くように、と神さまから声を戴いて、それに従って歩み始めることです。そして、先生の出席していた教会はバプテスト教会だったので、福岡の西南学院大学の神学部で学ぶことになったということでした。京都から通うのはほとんど無理です。先生は、単身赴任のように、福岡に住んで、大学の神学部で学びました。そして、京都に戻り、やがて一つの伝道所の牧師となりました。そうして、今は和歌山県で牧師をしておられるということです。

 神さまの声を聞いて、牧師への道を歩み始めたというのは、分からなくもありません。けれども、高校の教師という立派な仕事をきっぱりと辞めていったん無職となり、福岡へ一人行って勉強を続け、そうして雇ってもらえるかどうかさえ分からない牧師という職に就くというのは、独身であるならまだしも、家族をもつ男の人には、難しいことのように思えました。収入も途絶えてしまうし、神学部を卒業した後の収入の保証もないし、牧師になったところで、けっして高給とは言えない状況になることは明らかだからです。

 いったい、中学生などの子どもたちをもっておいて、そんな冒険みたいなことが、できるものでしょうか。今の私がそういう年齢、状況となっているから言いますが、それは大変なことです。家族がどうやって食べていくのかという問題は、自分が何をしたいかということよりも、大きな問題なのです。

 でも、すべては神さまが保証するから、という返事を戴いたのでしょうか、先生は迷いもせず、福岡へ一人行くことを選びました。

パンダ

 でも、生活が苦しくなるだろうと思われます。長い間学ぶ間に、お金がなくなってしまいます。

 牧師という、神さまの御言葉を人々に伝えようとする大切な仕事を始めようとする人たちは、生活を続けながら学んでいくという、大変な毎日を送っているのです。

 そんな神学校のために、私たちは祈りたいと思います。そして、今日の献金やバザーの結果を、そんな神学校のために使ってもらいたいと、献げたいと願います。


Takapan
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