もとはといえば、クリスマスにしても、イースターにしても、不思議な言葉です。最初は「それ何?」と思われるような言葉です。けれども、それらは一般的になりました。さまざまな音楽や芸術への理解が、それらの言葉を親しみのある言葉に変えていったのかもしれません。
ところが、ペンテコステだけは、いまだにマイナーです。音楽にしても、絵画にしても、ペンテコステを広めるに値するものがあったでしょうか。
教会では、まちがいなく三本の指に入るべき祭りです。それは、聖書に根拠をはっきりともっているがゆえにでもあります。しかし、クリスマスの賑やかさと、イースターの春の気分の良さからは、完全に水を空けられています。それどころか、聖書には関係のない、ハロウィーンのほうが、教会行事だと勘違いされる形で、ペンテコステなどよりはよほど有名になっています。

ペンテコステとは、五旬節とも呼ばれ、過越の祭から七週間、五十日目に祝われる祭のことです。ギリシア語で「第50の」という意味の言葉からきています。
もともとはユダヤの祭であり、麦の収穫を祝う刈り入れの祭でした。また、モーセに十戒が授けられた記念の日とも解釈されて、聖書の十戒の箇所を読む習慣です。十戒を初めとする律法は、子どもたちに繰り返し語り継がれるべきものですから、この日に少年少女への堅信礼、つまり宗教的な一種の成人式を行うことにもなっているそうです。
ですから、過越祭がイスラエル民族がエジプトから生まれ出ることを覚えるのに対して、五旬節は、イスラエルが宗教的に一人前になったことを念頭に置くことになっています。異邦人ルツが宗教的にイスラエルに導かれる話でもある「ルツ記」もまた、この祭で朗読される箇所となっています。

教会において、ペンテコステ、あるいは五旬節と呼ばれるこのお祭りについては、デリケートな扱い方をしなければなりません。それは、誤解を招きやすい部分があることと、もう一つの理由によります。
まず、誤解というと、ここでかなり神秘的な要素がどうしても伴うからです。もちろんイースターも、復活という奇蹟を描き、信じない人にとってみれば、それは神秘的としか言いようがないものでしょう。しかし、このペンテコステの出来事についての聖書の記述と、それを実践に結びつけようという私たちの理解は、復活とは比較にならないくらい、奇妙な出来事であるのです。
使徒言行録、あるいは使徒行伝、使徒の働きなどと、日本語訳聖書では名称自体ばらばらですが、要するに十字架と復活後、キリストの弟子たちが命を張ってキリストの教えを伝えていくことの記録がその内容です。最初は復活後の弟子たちの姿に始まり、世界最大の宣教者、パウロを主人公とする壮大な大河ドラマが展開していくことになります。
パウロがまだキリストの敵だった時期、イエスが天に昇られた(イエスは復活して40日の間弟子たちを直接励まし、そしてその役割を終えて復活のからだそのものが地上から姿を消すこととなった)後、迫害を恐れて隠れ家に閉じこもっていた弟子たちは、ある不思議な体験をします。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
(使徒言行録2:1-4,新共同訳聖書-日本聖書協会)
弟子たちは、この事件をきっかけにして、変えられました。このようにして聖霊を受けた弟子たちは、大きな変化を遂げました。ユダヤ人たちによる攻撃を恐れて、びくびく隠れていた彼らは、ここから、イエスがキリストである、と大胆に伝道に立ち上がっていくことになるのです。しかし、なぜ変わったのか、傍観者の立場からは分かりません。分からないから、気味が悪く見えることがあります。こうして霊的体験について、誤解を受けることにもなります。
また、別に、この霊を受けることを、現代でもなお起こっているとして、集団化し、教義化しているグループがあります。
彼らは、この体験が、強烈な霊的体験であったに違いないとして、礼拝の日に、霊に激しく突き動かされるような動きや歌を含めた集会を行います。傍目には狂気とも見られかねないような……。
キリスト教の一面に、こうした強い体験を重んじる部分があることは否定できません。かといって、これが必要条件なのだと強調するのも問題です。

ペンテコステは、ひとつの物語とすることのできない部分を含んでいます。クリスマスにしても、イースターにしても、信仰する態度なしにでも、それを美しい一つの物語として語り、理解することはできるかもしれません。しかし、このペンテコステという体験は、ペンテコステの輪の中に自分も加わることなしには、つまり自分で体験することなしには、何をも述べることができないような出来事であると言えるでしょう。
教会によってその扱い方はさまざまですが、あまり教会の場でペンテコステ体験を強調しすぎると、なじまない人をはじき飛ばすようになるかもしれません。
たかぱんなりの理解については、「こどもワイド」の「ペンテコステとらい病人」の中にも記しています。
