まだ見ぬ友のため

2003年10月

 教会学校教師の私の提案ではありました。が、子どもたちは「それはいい」と受け入れてくれました。

 空いている一つの席に誰かが座るように祈ろう、というのです。

 教会学校は、古い牧師館の部屋を利用して行われています。畳張りで、そこに座って分級、つまり教会学校の礼拝をします。低い長テーブルを二つ並べて、子どもたちは向かい合って座ります。そこに、ふだんだったら男の子が4人ほど集まります。うち二人は、我が家の小学生です。

 教師として私は、端の狭い辺に座り、子どもたちは長い辺に並びます。その奥の場所が空くので、そこに誰かが来るように、と祈り求めようというわけです。

 子どもたちは、具体的なことが分かりやすいはずです。実際にそこに誰かがいるかのように振る舞ってみようと私が言いました。以後、その場所にひょんと荷物を置くなどしないようになりました。誰かがそこにいたら、荷物を置くのは失礼です。いる「かのように」考えるのです。

 なお、この祈りは、私だけの提案ではありません。六年生が、こんなことを口にしたのです。

「今日、会堂に小学生の子がいたけど、こっちに誘えばよかったな」

 誰かおとなについて、小学生の子が礼拝に出席していることがあります。ミッション系の学校の課題で、レポートのために礼拝にくる学生がいますので、そうした兄弟についてくる子もいます。礼拝の途中から、子どもだけの礼拝に分かれていくのですが、そのときに、そんな初めて来た子にも、声をかけて誘えばよかったというのです。もっとも、以前に誘ってみたことはあります。ただ、初めての子が一人そちらについていくというのは勇気の要ることですので、誘っても断られることが常でした。それが分かっているから、敢えてしつこく誘うことも、ふつうしなくなりました。でも、そんな子に声をかけてみればいいのでは、という思いが出てきたとき、私は、それならそこの席にそういう子がくるように……と言ったのです。

 一ヶ月、そうした祈りが続きました。子ども礼拝の最後に祈りの時間がありますが、そのとき、一言そのことを加えます。さして派手な(?)祈りがなされるわけではありません。むしろ淡々とした祈りです。でも、そこに誰かがくるようにという祈りは、たいへん具体的な祈りであったと思います。いや、もっと具体的には、友だちの○○ちゃんがそこに、と祈るべきかもしれません。でも、それは自分の思いでもあります。まだ顔も知らない人、それは意外な人であるかもしれません。これまでまったく来たことのないような子が、ひょっこり現れてもよいのです。そしてまたそれが、楽しみにもなります。まだ見ぬ友が、そこに来ますように。

パンダ

 ここのところ、幼稚園の女の子が、お母さんと礼拝に来ていました。幼稚園以下の子は、幼稚科クラスというのがあり、短い時間ですが、賛美とお話があって、あとお楽しみの遊戯などがあったりします。女の子は、引っ越して幼稚園を変わったのですが、以前の幼稚園がミッション系だったので、今の公立の幼稚園では、「神さまがいない」とお母さんに訴えたのだそうです。それで、この教会に来てみることにしました。そんな日々が、二ヶ月ほど続いていました。実際、おとなの礼拝に最後までお母さんといることもありましたが、女の子は退屈に違いないのに、毎週元気にやってくるのでした。

 その日、その女の子の横に、お姉さんらしい女の子が一緒に座っています。

 子どもの礼拝に移るとき、私はその子とお母さんに声をかけてみました。お姉ちゃんは四年生。初めてこの教会にきてみた。でも最初だから、幼稚科のほうに加わってみる。そういう返事でした。

 それはそうだ。私はいつものように、男の子たちとの分級礼拝を始めました。この日は、我が家の二人だけでした。賛美を終えたころ、誰かが部屋の外に来るのが分かりました。さきほどのお母さんと幼稚園の女の子、そしてお姉ちゃんの三人でした。女の子ははにかみがちでしたが、お姉ちゃんは、初めてだと思えないくらい、積極的でした。カード台紙に色を塗るように言うと、すぐに塗り始め、しかもていねいに仕上げて壁に貼っていました。伝道集会のためのチラシを作ろう、とイラストを皆に描いてもらったときも、外へ見に行ってまでも教会の絵をきれいに描こうとしました。「教会に来よう!」という文字まで入れて。

 神さまは、祈りを聞いてくださいました。

パンダ

 私たちは、とくに口に出しはしませんでしたが、互いに了解していました。神さまが祈りをきいてくださっていたことを。空いた座席に、思いも寄らないような新しい小学生を送ってください、と祈っていました。そこには誰かが来ているかのように願い、扱っていたこの一ヶ月でした。

 神さまは生きておられる、というこの事実に、私はもっと子どもたちが驚くかと思ったのですが、二人は平然としていました。さしてびっくりするようなことではなく、自然に受け止めらていたように見えました。

 そうだ、それでよいのだ。

 神さまがいて、祈りをきいてくださるということは、驚くべきようなことではなく、当然のことだったのです。親に何か頼んできいてくれたからといって、ことさらに涙ぐんだり頭を下げたりする子どもはいません。それと同じように、神さまに対しても、天のお父さんが何かしてくれても、必要以上にひれ伏さなくてもよいのです。

 私はまた教えられました。


Takapan
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