「賛美」という漢字について調べてみました。
賛美の「賛」という漢字は、会意文字です。中国の「祈り」に関係しています。貝、すなわち大切なお金に、かんざしを並べて神の助けがありますようにと祈った様子を表しています。この祈りに神が応えてくださったとき、私たちは神をたたえます。神様が私たちを助け、私たちに賛成してくれるような意味から、私たちが神様をたたえる、つまり賛美する意味を表すようになりました。ものですから、「賛」の字は、助ける意味や同意する意味、ほめたたえる意味が含まれるようになりました。
賛美の「美」という文字は、象形文字。羊の全身を表しています。「羊」の字が羊の上半身を表すことはご存知でしょう。顔の形にそっくりですね。これに「大」が付いて、全身を表すようになりました。成熟した羊の美しさを表す言葉として用いられ、しだいに美しさそのものを示すようになりました。美しいものは「よい」ものであり「ほめる」べきものですから、「よい・ほめる」意味も加わりました。
さらに、この「羊」にのこぎりを示す「我」を組み合わせると、犠牲としての羊に何の欠陥もないという、完全で正しいものを示すようになりました。犠牲として神に供える羊は、美しく完全なものである必要がありました。

「賛美」という言葉は、中国の人々も、すばらしい意味をこめて作っていたのです。その「神」は、聖書の神さまとは違ったかもしれませんが、中国人は、たんなる偶像とは異なり、「天」という呼び方で、世界を支配する偉大な存在を見つめていましたから、もしかすると聖書の神さまの働きかけがあったかもしれません。
こうして見ると、たしかに「賛美」という言葉は、漢字の意味からしても、完全に正しくすばらしい神の助けをほめたたえることを表す言葉でありました。

賛美をしましょう、と教会では言います。しかし、中には、声に出すのが恥ずかしいとか、嫌だとかいう人もいます。
昔、ある教会の聖歌隊には、若い男女は皆参加していましたが、どうしても参加しない男の子の兄弟がいました。音楽あるいは自分が声を出して歌うことが、どうしても嫌だった様子です。じゃあ歌わないでいいから練習を見ていませんかなどと言われてもいましたが、やはり何か歌うことに対しては、嫌な気持ちをもっているようでした。
下手でもいいよ、などと言われても、いやもしかするとそう言われるほうがなおさら、歌うのが嫌だと思う人はいるわけで、よけいに歌ったりするもんかという気持ちになってくるものでしょう。

さすがに、歌うことを無理強いすることはなかったのですが、それでも、聖歌隊の練習は見ておきなさい、と見学を強いられていました。それは、いつかふと声を出してみたくなるようにさせていこう、という意図の現れでした。
私自身は歌うほうは(下手ではあるにしても)好きでしたが、なんだか嫌な気がしていました。
歌が下手だかから、あるいは恥ずかしいから、と声を出したくない人がいます。病気や障害のために、歌が歌えない人もいます。歌うには歌えるけれど好んで歌いたくない事情をもつ人もいます。
私たちが「歌う」という形で知っている姿に強制するのは、よくないと思います。

NHKで『にほんごであそぼ』という番組があります。声を出して読みたい日本語というテーマで、斎藤孝という先生が監修して、子どもたちが、たとえ意味が分からないにしても、声を出して日本語の名文を暗誦することをして見せる番組です。
今、日本中で子どもたちが、「いろはうた」や「じゅげむ」を称えています。古典文学の冒頭や、明治期の詩を、大声で暗誦しています。
意味など理解しなくても、声を出して調子よく称えることは、楽しい気分がします。元気が出てきます。私なども、小さなころに覚えた百人一首が、今なお口をついて出てくるのは、意味に関係なく暗礁したからです。
黙っているのではない、声に出してみる。口を開けて声を出す。そこに、秘密があります。ひっかかってもいいじゃないですか。番組で、「雨ニモマケズ」を全国の人が、当地の方言で暗礁してみせるのも、時に間違えたりしますが、実に楽しそうです。聞いているほうも楽しくなります。
言おうという気持ち、言ってみる勇気、口を閉じていては体験できない何かが、そこにあります。
何らかの理由で、賛美歌を歌いたくないという人がいます。その人に歌えと強制するのは間違っていると思います。でもそれは、歌わなくていい、歌う必要はないのだ、という意味でもないだろうと考えます。
私たちは、やはり歌うべきなのです。
歌うことは、神さまを賛美すること。賛美するとは祈ること。歌うというのは、歌手のように上手にメロディを歌うことだけではありません。やっぱり、口を開けましょう。
逆に、口をつぐむときのことを考えてみましょう。子どもが口をつぐみ、だんまりを決めこむのはどんなときでしょうか。それは、反抗するときです。相手に心を開きたくないときです。そうなると親はますますカッカきて、なんで答えないんだ、と熱くなりますが、そうなるとますます子どものほうも、しゃべらなくなります。しかし、やさしく言われてその人に心を開こうと決めたときには、初めて口を開こうとすることでしょう。
もし私たちが神さまに従うなら、神さまに心を向け、心を開くなら、口を開けるでしょう。すると、その開けた口から、神さまは恵みを注いでくださいます。何倍も、何十倍も、これでもかといわんばかりに、あふれるほどの恵みを押し込んでくれることでしょう。
「口を広く開けよ。わたしはそれを満たそう」(詩編81:11)
それは目に見えないけれど、いえ、見えないからこそ、大切な、永遠のものであるのではないかと思います。

Jr.1がまだお腹の中にいるときに、子どもたちを頭に、私の中から生まれた賛美があります。
「永遠がここに」といいます。
永遠がここに
地の上の よろず世ごとに わずらわしさ覚え
手もと見る いとまがあれば 大空を見よ
神の力を 胸に受け 喜びが燃える
見えるものは その場かぎり 国も 王も 宝も
花や草が 枯れ朽ちても 御言葉はとわに立つ
罪ありて 罪のままでは 滅びるほかにない
自分では 償うことも できるわけない
義とされたのは 御子のゆえ 永遠はここに
見えるものは その場かぎり 国も 王も 宝も
花や草が 枯れ朽ちても 御言葉はとわに立つ
神の恵みに 生かされて 喜びが燃える
見えるものは その場かぎり 国も 王も 宝も
花や草が 枯れ朽ちても 御言葉はとわに立つ
生まれ育つ 子どもたちに 聞かせずにいられない
昼も夜も この言葉を 幾たびも幾たびも
