教会のある方のお子さんが、5月に、手術を受けました。まだ2歳の、男の子です。
よく、お母さんはその病気に気づいたと思います。その子は、夜眠れず、苛々し、また、成長発達が遅れがちでした。けれども、通常の健診などでは理由が判明せず、なぜだろう、なぜだろう、と悩んでおいででした。
あるとき、病院にあったなにげないパンフレットの一部に、少し思い当たるところがあったので、そのことをきっかけとして、いろいろ調べました。舌に問題があって、呼吸がうまくできていない場合がある、という情報に、もしかしたら、と考えました。
しかし、その病気は、まだあまり一般的でなく、専門的に扱える病院が、日本に三カ所ほどしかないというのです。問い合わせると、やはりその関係であるとのことで、舌の手術を受けると、呼吸が楽になる、そうすれば、息も楽にできて、成長の問題も解決されるに違いない、といいます。
口の中の、小さな舌。その舌をちょっと触れば、からだの成長もよくなる?
最初は半信半疑でしたが、ほかでは解決できない問題でしたし、実際診てもらうと、やはりその病気であるとのこと。しばらく順番を待った上で、5月に、神奈川県で手術を受けることができました。
19日のペンテコステ礼拝の後、すぐに神奈川に向かいました。
発熱があったので、手術を受けることができるか微妙な状態でしたが、当日の朝は不思議と熱が引いて、受けることができました。

手術の結果。呼吸の邪魔をしていた舌が、邪魔をしなくなっただけです。ただそれだけのことで、まず、手足が温かくなったそうです。呼吸が十分できるようになって、酸素がからだにゆきわたり、からだが温かくなったというのです。
息苦しさから解放されたゆえに、その子は、顔つきが変わりました。つねに苦悩の顔色だったのが、さっぱりした、凛々しい顔つきとなって、物事への興味もわき始めました。歩くのもよろよろとしたものが、すたすたと歩きます。
すべてが変わりました。まるで別人のようになったといいます。
口腔内の手術で、息が通るようになってから――みちがえるように、夜が安眠できるようになり、また、顔つきも変わり、物事への意欲も出てきました。きっとそれまでは、好奇心どころでなく、息をするだけで精一杯だったのでしょう。
医師は、むしろよくこの日まで無事に生きてきたものだ、というふうなことを言ったそうです。息苦しさを抱えたまま、ずっと2年以上も、生きてきたのですから。

次の礼拝の後、お母さんが、涙ながらに、教会の皆さんにこのことを報告しました。感動的なひとときでした。祈ってきた人々への感謝と、とにかく神のわざのすばらしさを称えて……。

ところで、「息」という言葉は、聖書の中でも大切な言葉として使われています。ヘブル語で「ルーアハ」というふうな発音をするこの言葉は、ほかにも意味をもち、同時に「風」をも表します。これも聖書によく使われる意味となっています。
驚くことに、この言葉は、さらに重要な第三の意味をもっています。「霊」を表すのです。神の「霊」という、きわめて重要な言葉は、まさにこの「息」であり「風」であるというのです。
その子は、舌が邪魔をして、息が通りにくくなっていました。今では三倍も気道が開いたようになっているといいますが、かつては狭く、多くの酸素を取り入れることができないでいたのでした。
それで、酸素欠乏のような状態で、体温もうまく上がらず、夜も眠りが深くとれず、からだの成長にも悪影響を与えました。息苦しいので、何をやってもつまらなく、ほかの物に興味や好奇心を示すという余裕がありませんでした。
神の「霊」も、私たちの中にスムーズに行き来しないとき、問題が起こります。呼吸というのは大切ないのちの源であることを、改めて教えられます。呼吸――それは、たとえば「祈り」のことなのでしょう。
神の霊が通わぬ生き方は、実は息が詰まりそうな、酸欠状態にほかならなかったのです。
