共に生きる場所

2001年11月


   わたしの父の家には住む所がたくさんある。
(ヨハネの福音書14:2,以下新共同訳聖書)

 教会には、その人の居場所があります。建物ではなく、人との交わりの中にこそ教会が成立する、と『教会とは?』で説明してみましたが、教会は、人と共に生きているんだなあ、と思うに相応しい場所ではないかと思うのです。

パンダ

 他人の前で自分をさらけ出すことはどうも……というのが、多くの人の実感ではないでしょうか。ほんとうの自分を知られたくないし、うっかり本音を出したりすると、かえって自分に不利なことになることがあります。人間関係こそが、ストレスの最大の理由といわれるもうなずけることです。

 人々は、ますます自分をまわりからカバーするように、シェルターを築いて暮らすようになっています。

 誰も自分に干渉するな、おれはおまえたちと関わりたくない、たとえそこにいてても、おまえたちはおれにとって、関わる相手ではない、いわば物であり、風景なのだ……。

 そんな声が、街にはひしめいています。

パンダ

 たとえば、電車の中には、今の社会がコンパクトに現れているように思えてなりません。さまざまな人が狭い空間で時間を共にする電車という乗り物は、世の中の縮図のような気がします。学校のように、リーダーや規律のもとにサッと並んだり揃ったりするのは、世の中では希なことでしょうから。

 2人掛けの座席の、通路側に一人で座っているくらいならまだいいほうで、もう一つの席にどんと荷物を置いて、誰もそこに来させないようにして、目を閉じている姿。お見合い型の座席では、隣の人との間に半人分の間隔をとり、四人座れる場所に三人しか座らないようにする姿。もちろん、女子高生がおじさんとの接触を避けるためというような場合はまだ同情できますが、けっしてすべてがそういう事情ではないように思います。片足首を膝に乗せて横柄に座り、隣の人に靴の裏を見せても、平気でいる神経。

 もう、携帯電話は遠慮してくださいなどとは言えないくらい、電車内での携帯使用は当たり前になりました。依然として喋っている人は論外としても、メールのやりとりをしている人は、ペースメーカーを付けた人などはこの世に存在しないと信じているようですし、そうした実害がないにしても、携帯電話という道具は、今そこにいるその場その時から、ワープでもして、別の場所に逃げている窓口であることに違いはありません。要するに、そばにいる人の迷惑とか、嫌悪感とか、そこにいる生の感覚というものから目をそらし、自分の加害性に自ら免罪符を発行しているようなものではないでしょうか。

 誰も自分に干渉するな、おれはおまえたちと関わりたくない、たとえそこにいてても、おまえたちはおれにとって、関わる相手ではない、いわば物であり、風景なのだ……。

 思えば、「傍若無人」という言葉は、現代では死語になっているかのようです。それは、傍若無人という現象が消滅したからではなくて、もはや取り上げるだけ無駄なほどに、当然のものとして居座り続けてしまっているから、誰もそんな戒めめいたことを口にしなくなった、と言ったほうが正解に近いのではないでしょうか。携帯電話という窓の向こうにおれはいるんだ。おれはここになんかいないんだよ。だからおれが何をしようが構わないでくれ。関係ないね……。

パンダ

 しかし、反論もあるでしょう。皆が個人の枠に閉じこもっているわけではない、と。電車の中で、わいわい話している人たちはどうなのだ。コミュニケーションも交わりも、ちゃんと成立しているではないか。

 でも、迷惑です。電車の中の狭い空間で、大声で話す人。以前より多くなってはいないでしょうか。楽しそうに大声で話すのは、学生、女性、男性、それぞれであり、特定のグループには決まりません。

 思います。彼らは、小さな社会を作り、他の社会空間を物として、風景として無視していることにおいては、個人の枠にいるのと、さして変わりがありません。仲間内で盛り上がりながら、他の乗客の迷惑はまるで考慮しないのですから。

 体力がないせいか、電車の中で座り込む若者も相変わらずです。シェルターを築いているのは、あちらもこちらも同じようなもの……。

パンダ

 携帯メールでは、出会い系サイトを熱心に探し、人との出会いを求めているようで、その実そこにいる現実の場所から逃避しているとは……。

 いえ、出会いたい気持ちそのものは、大切です。悪いことはありません。でもどうせ出会うなら、教会の人と出会えば、それなりに信頼することができるだろうに、何を考えているか分からない人間と出会って、命や金品を失うケースさえ希ではないのですから、困りものです。もちろん、教会に通う人に多大な理想をおくことは間違っています。けれども、リスクは少ないと思うんですけどね……。

 たとえ人間の友だちができなくても、教会にくれば、必ず友だちが与えられます。イエスはこう言いました。

   わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(ヨハネによる福音書15:15)


 このイエスが友となってくれた人間たちが集まっているから、互いの痛みも分かっています。教会に通う人は、自分が悪い人間だという事実を知っていますから。偉そうに、聖人ぶっているようなことは、ないはずです。もしそうした教会があったら、お勧めできません。何か聖書を勘違いしているグループでしょう。

 でもそうでないなら、そこにあなたが加わることは、まったく構わないことです。自分のような者は入れない、などということはありません。冒頭の聖書の言葉が示すように、なにしろ住むところはたくさんあります。その人のために神が用意した部屋が、必ずあるのです。

 人間が集まるところですから、多少、気にくわないところがあったら、合わないと感じる部分もあるかもしれません。でも、神はご存知です。とりあえずどこにでも、教会にはあなたの居場所があります。どんなに人に嫌われていると思っている人でも、神は見放すことはありません。



Takapan
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