オウム真理教の裁判で、ついに首謀者として教祖への判決が初めてなされました。2004年2月のことです。
断罪はしなければならないでしょう。被害者やその周りの人々の気持ちは察するにあまりあります。どんな復讐をしたところで、戻ってはこないものがあることに空しさも覚えられるかもしれません。
けれども、他方依然として麻原彰晃(松本智津夫)の考えを肯定しそれに心が支配されている人々がいます。彼らは被害者であると同時に加害者でもあるが、また私たちの言葉や心理的圧迫のための被害者ともなるのです。私たちが彼らを追い詰め、復帰できないようにしているとすれば、私たちが加害者になっているとも言えるからです。
オウム真理教のしたことは悪いことでしたが、だから私たちが正しいという理由にはなりません。どうしても、だから私たちは正しいという発想に逃げ込みたい心理が人間にはあるものです。そんな私たちの「気分」を作ることを助長するのが、報道です。報道の責任は、関係者が思っている以上に重いものです(関係者が思っていないなどとは申しません。心あるジャーナリストや番組制作者がいることは事実です。それでもやはり思っている「以上」であると言っているのです)。
たとえば、気になる表現があります。新聞や雑誌、テレビのリポーターに評論家たちが声高に叫び繰り返した、次の問いです。
「一流大学などの学生やその出身者など、高学歴の若者が、なぜ」オウムにのめりこんだのか――。
おかしいとお思いになりませんか? この問い自体が。
私には、この問いは、こう聞こえるのです。
「高学歴者は、宗教は信じないはずだ」
「高学歴者は、正しい宗教とそうでない宗教とを見分ける力ももっている」
さらに、この問いが出てくる背景にあるものとして、次の命題も響いてきます。
「宗教は、学歴のない者のものだ」
また、この問い自体は、次のような前提を含んでいるとも言えます。
「宗教について学校が教えている」
学校でなくても構いません。親が、大人が、宗教を教えているのでしょうか。先の見えない時代に心の不安を覚える子どもたちに対して、宗教的信条あるいは心情を、話して聞かせているというのでしょうか。それとも、どんなことでも金で解決できるということだけを教えておけば、人間はなんとかなると教えているのでしょうか。

はたして、宗教心は、学歴と反比例するのでしょうか。
たしかに、なんらかの教養が、教義の理解のために役立つことはあるでしょう。しかしこれでは学歴と宗教は比例することになってしまいます。なぜ、学歴の高い若者が宗教に走ることが意外なのでしょうか。
日本では、特定の宗教を信仰しないことが、ステータスになっているかのようです。信仰をもつということは、理性的ではなく、科学的思考に背を向けたものであり、正しい考えがもてないことである、と考えられているのです。
無宗教であることが、教養あるグループに属する条件であって、そのほうが精神が自由であり、狭い考えに陥らず、また平和な思想になる、と思われているわけです。
ところがこれは、世界に出ていくことに困ることになります。無宗教は人間ではない、と見なされる国もあるという話ですが、そういう目が日本を見ると、まさに「エコノミック・アニマル」になってしまうのでしょう。
また、宗教を信じるということは好戦的なことになる、とも考えられています。違う宗教を信じる者たちは、必ず争いに向かうと思っているからです。いえ、実際世界ではそれらの争いが起こり、絶えないではないか、と主張します。だから、無宗教こそ平和なのであり、寛容なのである、と結論するのです。ほんとうは、この思いが先にあって、それを目的として、世界の戦争が宗教に基づく争いであるかのような色眼鏡で見てしまうわけです。無宗教であることが正しいと言いたいがために、利用している心理があるわけですが、当の本人たちは、その逆の順で考えていると思い込んでいます。
無宗教こそ平和。寛容。ゆえに、アニミズムこそ寛容、平和。そういう錯覚に陥った人は少なくありません。しかも、教養あると自負するタイプの人々に、この錯覚への信仰が強くなっています。
無宗教がいい。アニミズムが真理だ。こういう短絡的な見解が、さも正論であるかのように振る舞っています。それが日本の島の一般的理解です。残念ながら、それは自分を正当化したいがためにあみだした理論に過ぎません。自分で自分こそ正義だという前提から始まり、それを押し通そうとします。これは「自己義認」です。こういう自己義認こそが、世界での争いの根本であることが見えません。気づいていません。気づいていないから、日本は、異質なものをつねに同化しようと目論み、どうしても同化できないものについては、排除し、徹底的に迫害するという方策を採り続けたのです。

オウム真理教を排除する叫びはいくらでもありますが、オウムに居残る加害者、あるいは見ようによっては被害者たちを、「どこか一般の人々とは違う部分が多いがその違いのあるままに」まるごと認めて、(たとえその意見に賛成はしなくとも)社会の中に居場所を与えようとする声は、あまり大きくなりません。
「綺麗事を言うな。オウムが隣に道場を作ったとしたら、おまえも気持ち悪く思うだろうに」
そんな声もあるでしょう。でも、無宗教者こそ寛容だと思いこんでいる人々は、まさにその自分たちこそが、宗教者を排除しているのだという理解をしているのでないなら、それはただの迫害と言われても仕方がないでしょう。皮肉なことに、やたら被害者意識の強かったオウム真理教の姿と同じように、好戦的な自分たちのことを、平和の使者だと自分たちだけで評価しているのですから。
オウム真理教の信徒たちの、ある意味で苦しみというものについて、理解をしようとしているのは誰でしょう。それは、いわゆる無宗教者たちではありません。気味悪がっているのだと思います。宗教というものがどういう事柄であるのか、体験も知識もないからです。しかし、何らかの信仰の世界を体験し、それなりに深く理解している人々、もっと正確にいうとそういう人生を送っている、いや送ろうと心がけている人々のほうが、オウム真理教の信徒たちのことを、どこか共感できるあり方で見守り、応援すらしているのです。無宗教者よりも宗教者のほうが、理解できると思えたり、理解したいという願いが起こされたりしています。

教会に来る人々は、互いに相手を「神の子」であるとして接します。
学歴や才能、収入の多少で人を判断しようとは思いません。神の前にはどんな人がどう偉いなどということはないのです。あの弟子たちも、誰が天国で一番偉いかと議論し合って、ずいぶんきつくイエスさまに窘められたではありませんか。
相手を「神の子」と理解したとしても、それだけですべての問題が解決できるとは限りません。教会は、聖人君子の集まりだというわけではないからです。互いに、傷をもち痛みをもつ人間同士なのだという、人々の交わりなのです。社会的地位やステータスといったものは、教会では――天国では、何の役にも立ちません。ただ、互いに兄弟姉妹と呼び合う中で、それぞれが神の子として生かされていることを喜び合うだけです。
学歴ある者が宗教を、などという驚きは、実に失礼なものです。無意識の表現の中に、本心が現れてしまいます。へたをすると、口に出した本人すら意識していない、自分の心の中にある偏見や妙な前提といったものが、露呈してしまうのです。
ただの論理的な命題としてのみ、「学歴ある者がなぜ宗教に?」という意味の文があると思うのであれば、たしかにそれは科学的命題そのものであり、何の偏見も含まない文であるのでしょう。しかし人間には、感情というものがあります。きっとあの問いは、科学的な問いではないでしょう。自分でも意識していない形での、偏見が巣くった心というものについて、一度点検してみるのは悪くありません。また、日頃から、そうした偏見がないかどうか自分の胸に確認し続けているとよいでしょう。訓練されます。自分の心と、他人の心とを理解する能力が発達します。訓練されなければなりません。この発言には、どういった心理が背景にあったのか。どうしてこんな質問をしたのかその心情を見抜けないか。
つい、出てしまう心というものについて、考える訓練があることが望ましいものです。この発言の背後には、どんな気持ちがあるのか。でないと、つい騙されてしまいます。多くの詐欺と呼ばれるものは、この類の質問によって成り立っています。意図的に、ある方向へ引きずっていってしまうのです。一見、正しい推論のように聞こえる、誘導過程が、また若者たちをマインドコントロールの世界へ落ち込ませたのかもしれません。

そして今日もまた、新聞の投書欄に、「教員」という肩書きの男性が、正論として高らかに言い放っていました。日本は宗教に寛容で平和であるが、西洋の宗教はオウム真理教と同じであるから、日本に流れている仏教の「不殺生」と、愛と慈悲とが必要だ、と。
こういった声が、耳に心地よく聞こえる空気とは何なのでしょう。
キリスト教会は、こうした誤った理解が蔓延するのを、見過ごしていてはならないように思います。
